第5章 仏教的死生観(4)― 禅的死生観

第2節 絶対主体の確立による生死超克

禅僧はたいてい霊魂や来世の存在に冷淡である。臨済宗天龍寺管長・関牧翁(一九〇三~九一)は、「生きている人間に希望を与える」ために極楽を仮に定めたので、実際は「そんなところはないんです。(中略)禅宗でも、死んだらおしまいだ。灰になっちゃう。だって、石油ぶっかけて、大きな焼却炉で人間を焼いた後、魂が残ったこと覚えていられますか」と明快だ(荒金天倫・高田明和『死を見つめる心の科学』講談社ブルーバックス 一九八九年)。

臨済宗相国寺派管長・ 有馬賴底は「死後の世界なんてないのです。死後の世界がなかったら、怖くもなんともない。どこにも行きようがないし、そもそも死を恐れる自分自身すらないのですから」(『無の道を生きる』集英社新書 二〇〇八年)。

前述した松原哲明も言う。

「人が死んだら、涅槃(ねはん)だから、全てが吹き消されて、無生になる」。それは、残りの生もゼロ、残りの死もゼロということだ。「死んだら、死がゼロになるのになぜ怖(こわ)がるのか。死んだら地獄があると思い込んでいるのであろう。死後はない。地獄、極楽、天国、祟り、魂の迷い、一切ない」(前掲㉗)。

ところで、死を恐れる「自分自身すらない」と有馬賴底は言ったが、これは、関係性(諸縁、すなわち親子とか教員・生徒などの関係)の中でのみ確認できる自己は相対的なもので実体はないということであり、また人間社会における言語によってのみ成立する自我はフィクション(虚構)である、ということだ(玄侑宗久『仏教・キリスト教死に方・生き方』鈴木秀子との対談集、講談社+α新書 二〇〇五年)。

そして禅修行とは、「我々の心には、言語体系の構造全体がすっかり根をおろしている」が、その根を裁断し、主観・客観に分別する意識を掃討・粉砕するものなのである(竹村牧男『禅のこころ』ちくま学芸文庫㉘)。それを禅では「大死一番」とも言う。

「大死一番」とは具体的には、どんな意識状態か? 臨済宗住職の菅原義道に言わせると、座禅で「姿勢を正しうし、呼吸を整えて、無!無!と念じておると、自我の存在というものはなくなる。だから、坐ったままで、大分散を起こしかける。(中略)死の境地に入っていくのです。そして、天地と一枚になる。俺と宇宙と一体なんだ」という感じを持つという。

そして「禅宗は、神を向こう側におくのではなく、自分が神であり仏である、との考えであります。」とまで言い切る(『死んでどこへゆく』日新報道出版部 昭和50年)。