実はその後も中学二年生の頃まで釣りをしたはずなのに、あまり覚えていない。祖母のように魚を待っていてくれる者がいなくなると、釣りをする意欲が減退したのかも知れぬ。

実家にいたのは中学までで、高校、大学は下宿生活、仕事に就いたのは大阪だったから、この間一〇年余り、釣りをすっかり忘れていたのである。

結婚したのは三〇歳だった。不思議なことに、結婚と同時に釣りを思い出したのである。

妻が魚好きだったことを幸いに、以来女房から「釣り未亡人です」と言われながらも、それに懲(こ)りず、ある時は仕事上の接待と言い、男の付き合いと言い訳し、釣り師の女房になった宿命を諭(さと)し、様々に妻の機嫌を取り、かくの如く女房に気を遣い過ぎて、近年ハゲが進んでしまった、等と愚痴ったりしながら今日に至っている。

では釣りを覚える前の幼少期はどうしていたのか。

オイラの一番古い記憶は、昭和二〇年の夏から始まる。

広島市へ原爆が投下されたのが八月六日。

その二日後の八月八日、広島県の東部にある福山市が空襲に遭ったのだ。

その夜、南の山上が真っ赤に染まり、それを父の背中で見た記憶がある。

三歳と五カ月だった。

次の記憶は同じ年の秋、わずか一五歳で予科練に行った次兄は、特攻隊に志願するも飛び立つ飛行機がなくて生き残り、無事帰還した。

リュックから飯盒(はんごう)や乾パンを出しながら、台所の隅で母も兄も嬉し涙にくれていた。

側にいて母の涙を見てべそをかいたら、兄にあやされ、いよいよ大泣きをしたのを覚えている。

※本記事は、2020年9月刊行の書籍『お色気釣随筆 色は匂えど釣りぬるを』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。