第5章 仏教的死生観(4)― 禅的死生観

第1節 「仏心の信心」による生死(しょうじ)超克

彼は、昭和28年の「バー・メッカ事件」の殺人犯で死刑囚だった獄中の正田昭(後述)に対し、著書に手紙を添えて罪の懺悔を勧めるとともに助言した。「人間は仏心を持っていても、悪い因縁で犯罪に至ることもある。それが人間で、根本の仏心に罪悪はない」と。

そして「今朝、こんな歌を大衆に示しました。仏心は生き死にをこえ、天地をつつみて天真独朗のものぞ、と」。仏心は絶対で、人は仏心からはずれてたくてもはずれられない。死はあなただけのものではなく、遅れ先立つ違いだけで、皆行く道だ。

「それは永遠の生命へ帰ること、すべての人が、仏心の信仰からすれば一人も漏れることのない道です。さばさばとして、堂々として、仏の仲間入りをしてください」と書き送った。

朝比奈は、禅と言えば自力的な「見性」や「悟り」を言う中、「信心」を強調する。死ねば「必ず仏心に帰る。いいかえると、かならずお浄土へ行くんです。絶対に行くんです。これを信ずることが、仏教 で言えば生命の問題の解決です」(同上書)と断言する。

仏教学者の紀野一義(一九二二〜二〇一三)は、「禅で『心』というと、それは『いのち』のことである」として朝比奈の言葉を「人が仏のいのちから生まれ、仏のいのちの中に生き、仏のいのちの中に帰る」ということだと解説している(『−禅現代に生きるもの−』NHKブックス 一九六六年)。

紀野は他方、日本曹洞宗の祖・道元(一二〇〇~五 三)の『正法眼蔵』の「この生死は、すなはち仏の御いのちなり」に始まる一節を現代語訳し、「自分というものを中心としてものごとを考える考え方を放り出し、仏のいのちを頂いて生きているのだという大きな安心感の中へ自分を放りこんで、仏が生かしてくれる通りに、大らかに生きて行ったら、力を入れることも要らず、心を煩わすこともなく、迷いを離れて仏となるのである」と記した。

道元の生死観は、宗派は違え、朝比奈にも通じているに違いない。