「……そうなんですか。面白いですね」

彼とのデートでは、いつも、いつの間にか数学の話になった。優子にはチンプンカンプンだった。彼が、優子の内面を知りたいと関心を持っているようには感じられなかった。センシティブな優子には、それが大きな問題だった。愛していると言われても、容姿だけ気に入られているようで、心に響かなかった。

優子は考えた。母が言ったように、入江は将来、学者になるだろう。大学の教授夫人? それが何だというのか。彼がもし、大学を辞めてコンビニの店主になりたいと言ったら、自分は彼についていけるだろうか? 愛していれば、ついていけるだろう。でも無理だ。そうか……自分は、入江を愛していない。母が父を愛しているように、自分は入江を愛してはいない。学者の卵の彼に、 憧れていただけだった。そう優子は結論した。

しかし、父は、入江と自分が結婚するものと決めて、死んでいった。父の思いをむげにする事に、優子は胸が痛んだ。そう思った途端、また息が荒くなり苦しくなった。胸に手をあて、治まるのを待ったが、なかなか治まらなかった。優子は倒れ込み、一時間ほど苦しみに耐えた。入江が渡してくれた封筒を手にとり、何とかしなければと思った。

真弓は、気がふれたようになっていた。

「優子。ほら、聴こえるでしょ? あの人が応接室のステレオで、モーツァルトを聴いているわ」

と言い、フフフッと薄気味悪い笑みを浮かべていた。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『追憶の光』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。