第4章 仏教的死生観(3)― 輪廻転生的死生観

第1節 岡本かの子と生々流転(しょうじょうるてん)的死生観

こうした生々世々業転の象徴となるのが、かの子の小説における「河の流れ」である。『河明り』(⑦第四巻)の大川(隅田川)、「水の性」を本質とする主人公・蝶子が乞食たちと関わる場となる『生々流転』(⑦第六巻)の多摩川(小説では「多那川」)がそれだ。

小説と評論で著名な石川淳(一八九九~一九八七)は「女史は窮極に於て『河』という死生観に到達している」と言い、『生々流転』や『やがて五月に』(⑦第三巻)などの小説に「業薫習(ごうくんじゅう)」の展開を見ている(註:「岡本かの子」『文学大概』中公文庫 昭和51年。

なお「薫習」とは、我々の行為や感覚・感情・意識が潜在意識としての阿頼耶識(あらやしき)にとどめられること)。ただ、かの子の言う「業」は、悪や地獄などの死後世界といったものに結びつくものではなく、人間の有為転変を引き起こす因縁の意に近い。

河はやがて海に注ぎ込む。「天地の間に漫々と湛えている大生命の海。いつの原始(むかし)から湛え始め、いつの未来まで湛え続くとも判らぬ海。涯(はて)しも知らぬ海。あらゆるものを育みそだて、あらゆるものを生きて働かせ、あらゆるものを葬り呑んで行く海。(中略)そして私たちもその中に生きている。大生命の海の中に泳ぐ小生命の魚のように。」(『仏教読本』)。

大生命の中に生きていることを自覚しないまま魚は生き、他の魚や人間の中に摂取されてゆく。永遠の生命の流転、そこに死の入り込む余地はない。