第一章 生い立ちの記

二 あきらめ

私が小学校に入学した翌年の、昭和二十六年のことです。

学校から帰ると家の庭いっぱいにめぼしい家財道具が運び出され、差押えの紙、いわゆる「赤札」がベタベタ貼られていました。祖父母と叔父一家は、東京へ新たな道を求めて、戻っていきました。

私たち親子は、母が結核療養所に入院していましたので、父と共に北信濃の地に残りました。父は次第に酒に溺れていきました。入院していた母の病状も、また日に日に悪化していったのでした。

酒に溺れていた父ですが、花が好きで、家の小さな庭で、百日草・アスター・朝顔・バラ・松葉ボタンなどのいろいろな花を、一緒に育てた思い出があります。また、百人一首やトランプで弟と一緒に遊んでくれました。そんな中で、五七五七七の韻律は、自然に私の心に刻まれていったのでしょうか。

私が小学五年生の時、母は「後二カ月も持たない」というところまで病状が悪化しており、家で最期を迎えるために療養所から戻ってきました。しかし、母の寝ている部屋に子供たちは入れてもらえませんでした。

そうした状況を心配して、両親の仲を取り持った伯母が川崎から来て、正しい仏教の教えを信ずることを勧めてくれたのです。

伯母は、わが家に不幸が続くのは、「間違った宗教が、人間の精神や健康を損ない、悪い影響を与えるのだ」と言いました。父方と母方共に生まれ育った先祖代々の菩提寺の宗教は、浄土宗でした。