便箋を持つ優子の手が震えだした。体中から血の気が引いていった。

(お父さん!)叫んだつもりが、声は出なかった。(何!?)優子は、何が起きているのか、すぐには理解できなかった。いや、理解したくなかった。頭の中が真っ白だった。

しばらく、その場に茫然としていたが、やっとの思いで、ガクガクしながら、よろめく足どりで台所に入り、母に手紙を渡した。

「何?」と、手紙を受け取り、読むなり、真弓も青ざめ、その場に倒れ込んだ。

優子は、電話の受話器を手にとった。震える指で、一一〇番を押した。

警察の男が二人来て、優子と真弓に、達雄の行きそうな所はどこかと、色々と聞き取りをするが、取り乱した二人は泣くばかりで、捜査は難航した。警官は携帯電話であちこちに連絡をしていた。

もう昼過ぎになろうとしていた。警官によると、この大阪 平野(ひらの)の自宅近辺で、不審な事件は起こっていないらしかった。

「最近、ご主人と行った所はどこですか?」

「病院だけです」
真弓が泣きながら答えた。

「そういうのではなく、何か特別な場所へ行きませんでしたか?」

警官にそう言われて、優子は電撃を受けたようにハッと思いあたった。最後の家族旅行で、北陸へ行き、永平寺にお参りをしたあと、父が天然記念物の名勝だから行こうと言い、東尋坊(とうじんぼう)へも行った。日本海が青く美しかったが、高さ二十五メートルあるという断崖絶壁は、身がすくむほど恐かった。父が何故、そこに行こうと言ったのか、今になってわかった。

「東尋坊! 東尋坊です! 間違いありません! 早く! 早く行って、父を助けて下さい!」

そう叫ぶや、優子は泣き崩れた。

「東尋坊? 福井県の東尋坊ですね?」

「そうです! 父と母と三人で、最後に行きました」

「自殺の名所か……参ったな。とにかく、福井県警に捜索願いを出します」

「お願いします! 父を、父を助けて下さい!」

今になって思うと、永平寺で長らく祈っていた父は、様々な心の整理をしていたのだと思われた。家族三人、水入らずで旅行を楽しんでいたつもりだったが、東尋坊で日本海をジッと眺めていた父の様子も、どこか影があり、自殺を決意していたのだと思われた。優子は、なぜ気付けなかったのかと、自分を強く責めた。

その日の夕方に呼び出しがあって、優子は母を家に置いて、一人で特急に乗り、福井県警へ行った。警察署の遺体安置所に案内され、確認をするように言われた。父でない事を祈りながら、恐る恐る寝台に近づいた。警官が青いビニールシートをまくった。

「ハァーッ! ハァッ! ハァッ! ハァッ! ハァッ!」と、優子は荒い息づかいをし始めた。

「しっかり確かめて下さい」

優子は遺体の腕を見た。見覚えのある、父が愛用していたスイス製の腕時計があった。

「……父です。アッ! ハァッ! ハァッ! ハァッ! ハァーーー!!」と、優子は激しい息づかいをし、その場でひきつけを起こし失神した。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『追憶の光』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。