はじめに

夫婦ともに80歳。この本は、妻の認知症を自宅で介護した夫の奮闘記です。この本を書くに当たり、私以上に自宅介護でご苦労されておられる方が、とても多いと思います。

私は、認知症や介護の専門家でもありません。予備知識も経験もなく、ただ、6年間、妻の認知症と闘いながら私なりに経験した介護の実態を一冊の本にまとめました。

認知症と向き合った過程とか、創意工夫とか、介護が少し楽になったとか、最後に、手に負えなくなったとき、どうしたかを私の立場で綴ったものです。お読みくださり、少しでもみなさまの介護の一助になればとても幸せに思います。

プロローグ 私と妻の過去の経緯

妻と私は、1936年生まれの同い年だ。妻の叔母の紹介で1961年に結婚した。

妻は、石井家の長女として三重県鈴鹿市で生まれた。父親は、第二次世界大戦で戦死した。母親は、小さな食堂を営みながら女手一つで4人の子供(長女、妹2人、弟)を立派に育てた。

口数の少ない気丈なお母さんだったが、私は心から尊敬していた。当時、妻は、妹や弟の面倒をよく見て母親を支えていた。妹弟たちからも「姉ちゃん。姉ちゃん」とよく慕われ頼りにされていた。

聡明で明るく誠実で正義感の強いしっかり者だった。自分を犠牲にしてでも相手を優先させる優しさも持っていた。結婚するまで、そろばんが良くできたので農協の会計事務の仕事を続け家計を支えていた。

結婚が決まり妻の実家に行った。お母さんから「正夫さん。豊子を幸せにしてやってくださいね。あの子には、何ひとつ母親らしい事をしてやれなかった。苦労ばっかりかけたから……」と声を詰まらせ涙を浮かべてお願いされた。

母親が頼りにしていた長女が結婚によって家を出て、しかも、遠く離れた京都に嫁ぐのだから、その気持ちは断腸の思いでつらかったと思う。それを察した私は「お母さん。心配しないでください。豊子さんは、きっと幸せにしてみせます」と約束をした。

このことは、私の脳裏から離れることはなかった。お母さんは、1982年に66歳で病気で亡くなった。

私には、育ててくれた実の両親はいない。父親は幼い頃に病死と聞いている。母親は、私と幼い妹を残して無慈悲にも祖父母に預け、私が中学2年生のときに再婚した。

私は「お母さん。行かないで !」と出て行く母親の着物の袖を掴んで必死にすがって懇願した。しかし、それを振り切り振り向きもせずに出ていってしまった。私は、暫く、その場に泣き崩れていた。そのとき「あの人は、もう、僕の母親ではない」と心に強く誓い強い憎しみを持った。

そして、明治生まれの厳格な祖父母と叔母によって育てられた。祖父は厳しかった。そのお陰で人生曲がらずに育つことができた。

私は、祖父母を自分の両親だと慕い尊敬した。貧乏だったが私と妹を我が子のように扱い、経済的に苦労しながらも育ててくれた。私は、その恩返しをするために祖父母と同居し最後まで面倒を見てあげようと決意し、それを成し遂げた。