第二部

十二

その頃、日本は大きな変革期を迎えていた。時代は江戸から明治に変わったのである。このことは、日本人が徳川幕府の領民から明治天皇の臣民へと移ったことを意味する。それにつれて「廃藩置県」という制度が設けられ、江戸期の藩は廃止され、新しい区割りの県という呼び名に置き換えられた。ただし、明治の初めには、新しい区割りや名称も試行錯誤で、頻繁に変えられたようである。

例えば、備中松山藩は、幕末には高梁藩となり、明治になって高梁県、そして、最終的には岡山県に組み入れられた、などのように…。

かと言って、江戸時代のあらゆる制度がすべてスムーズに変えられたというわけではない。純之助の本家がやっている庄屋の制度も明治になってもしばらく続くことになった。だから、生活のレベルが急に落ちたとかいうこともなく、暮らし向きはほとんど変わらない。ただし、男のちょんまげは廃止されている。

そんな中で、純之助は働き盛りの壮年期を迎えていた。川辺宿を行き来して備中綿の売買とともに、交易の業務にも携わっていた純之助の本来の仕事は、庄屋の手伝いである。庄屋の最も大きな業務は、管轄内の農民から年貢米を徴収すること。しかし、明治になってこの制度は根本的に変えられた。

つまり、「地租改正」というもので、年貢米の徴収に代わって農民から直接お金で税金を取るようになったのである。農民は、その年に取れたお米を買い取ってもらい、それで得た収入の約3%を租税として納めることになった。

明治新政府は、行政の抜本的改革をスムーズに進めるためには、少しでも多くの資金が早くほしい。従来の年貢米だと、年によって豊作不作があり、換金する際にも収入が大きく左右される。しかし、お金でもらえば、すぐに資金として使えるし、安定した収入が見込めるわけである。

実は、この地租改正は、農民にこれまで以上の大きな負担を強いる結果となった。そして、当時の庄屋にとっても大層やっかいな制度と言えた。収穫量が不安定な米では、年によって値段が変わるし、すぐに現金化できない。米が不作なら、他の農作物を売って得た収入からも徴収されるが、農民にとっては一段と厳しいものとなり、新しい制度発足当時にはあちらこちらで農民一揆が起こったと言われている。

さて、そんな大きく時代が変革していく中で、相変わらず純之助は、管轄内の農民を集めては役所からの伝達事項を伝えたりして指導監督の手伝いをしていた。と言っても、実際は悩み事相談に乗ることが結構多かった。

中でも、やはり最も多い相談事は金銭に関わるもの。生来お人好しの純之助は、以前ほどではないが、不用意に小銭を貸したりする機会が増えた。

※本記事は、2019年8月刊行の書籍『高梁川』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。