天才の軌跡② 谷崎潤一郎の精神分析(視覚の無意識的意味)

谷崎潤一郎は本名であるが、長男ではない。彼が潤一郎の名を持つのは長男が夭折していたためであるようだ。

そして彼は日本橋の阪本尋常高等小学校に六才で入学するが、臆病で通学を嫌ったため、二年に進級できず、七才の時もう一度一年生をやり直したという。一般に登校拒否症の原因は母親の子供に対する過度の愛着によるとされているが、長男を失った不安と、夫、倉五郎が事業に失敗したための失望が、関の愛情と関心を潤一郎に向けさせたために発症したものであろう。

しかし一度学校に行きはじめると成績は優秀であり、一年を終えた時には首席であったという。十二才の時にはすでに級友たちと回覧雑誌を作ったりして、文学に対する志向を示している。彼の祖父は米の相場表を印刷して大成功し、豊かな生活であったが、その家業を継ぐべく養子となった父の倉五郎は事業家としては才能がなく、潤一郎が小学校を十四才で卒業した時には、家計は苦しくなっており、彼が進学することも困難な状態であったらしい。

しかし彼の学業成績が良かったため、学費を出してくれる人もあり、東京府立第一中学校に入学している。この中学の学友会雑誌に掲載された随筆は一年生の作品としては出色のものであったらしく、また、同級生の辰野隆氏の思い出によると、この頃の谷崎潤一郎は「秀才」であったという。

十八才の時に彼は同校を卒業し、十九才で第一高等学校英法科に入学した。十六才より二十一才まで彼は住み込みの家庭教師として築地精養軒の経営者北村家に寄寓している。

彼が二十一才で北村家を出たのは同家の小間使に送ったラブレターが当主に露見したからであったようだ。彼はこれを契機として一高の寮に入り、同時に文学で身を立てる決意を固め、英文科に転科したという。

彼は二十二才で第一高等学校を卒業、東京帝国大学国文科に入学している。しかし彼は二十二才の時に投稿した原稿が不採用になると、「神経衰弱」になり、友人の別荘に転地したこともあるという。

彼はこの「神経衰弱」を説明して、「というのは強迫観念が頭に巣を喰って、時々発作を起すのであったが、恐怖の対象はいろいろに変った。ある時は発狂するかと思い、ある時は脳溢血、心臓麻痺を起すかと思い、そして、そう思いだすと、必ず一定の時間内にそうなるに違いない気がして来る。するともうその予感で顔色が真っ青に変り、あるいはかあっと上気して来て、体中がふるえ出し、脚がすくみ、心臓がドキンドキン音を立てて鳴り出して、今にも破裂しそうになる」と書いている。

これらの症状から彼は不安神経症であったと考えられる。

※本記事は、2019年6月刊行の書籍『天才の軌跡』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。