「城の崎にて」は東京の山手線で交通事故に遭った主人公が、兵庫県の城崎温泉に行き、蜂、鼠、イモリなどの死を目撃し、そしてたまたま生きている自分を再確認する話である。

「僕の解釈では、助からないことを知っていて、死にあらがう鼠が、死ぬ直前の断末魔の姿を表し、偶然石に当たって死んだイモリは死ぬ瞬間の姿で、すでに死んでいる蜂は、死後の姿を意図的に表していると思うんだ」

と僕が言うと、A君が

「それは違うよ。それに、表しているものを見つけたら、それを、言いたいこと、つまり作品の主題につなげなくちゃだめだよ」

「でもこの解釈は、ある大学教授の解釈と同じだったよ」

と僕は言った。また反論してきた。どうやら彼は文学にはこだわりがあるらしい。時間はもう七時で、外はすっかり暗くなっていた。教室はもう使ってはいけない時間なので、外で話すことになった。話は文学から人生の生き方の話になって、A君は

「人間は五段階に分けられる。生まれてきたばかりの人間や、人間以外の生き物はみんな四段階にいて、人間は成長して正義を持つと一段階に下がる」

と言ったので僕は

「正義を持って一段階に下がるのはおかしくない?」

と言った。

「正義が悪いわけじゃないけれど正義があるせいで悪いことはたくさん起こるじゃないか。戦争中はみんな正義の戦争って言っていたんだよ」

「いや、そんなことないでしょ」

正直、正義は胡散臭いと思っていたが普通の人なら正義は正しいと、本心でなくても言うものである。そんなことも知らないで自分だけ正義の胡散臭いところに気づいた気になっているA君を少し軽蔑した。そんなことを話しているうちに七時半になっていて、もう帰ることになった。

「次の日曜日に将棋の大会があるの忘れないでね。待ち合わせ場所は大宮駅に一番近いMacに十一時で、そこからみんなで内宿駅に行くからね。じゃあね」

「うん。じゃあね」

五段階の途中の話は聞けなかった。僕は自転車で、上杉君とA君は電車で帰るのでここでお別れになった。家に着いてカバンを開けると知らない物が入っていてびっくりした。名前を見てみるとA君のものだった。定期券があったので、これがなくてはA君は帰れないと思い、スマホを探して自分のスマホに電話をかけようと思ったが、スマホがない。A君はスマホを持っていないのだ。学校へ戻ったが彼はいない。仕方なく駅へ行った。しかしそこにもいなかった。次にまた学校へ行き、先生に話し、A君の家に電話をかけてもらった。すると無事に家に帰っていることが確認できた。それでやっと自分は家に帰ることができた。カバンは次の日に返した。

※本記事は、2020年2月刊行の書籍『令和晩年』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。