第4章 合目的的なる世界

第4項 合目的の寂しい世界

2 それぞれの一方通行

遊びにも届かない余暇潰(つぶ)し。

「うちらは、お客さんの脳内ゲームのキャラクターみたいなもんだからね。」

SNSには、人を繋げているようでその実は個々に勝手に楽しむことを可能にしているという特性がある。同時に面前する必要がないから、めいめい勝手なタイミングで自分のメッセージを打つ。メッセージを受け取ったとき、相手がどの様な、例えば表情でその文面を作っているかは受け手のイメージに委ねられる(私だって前記のメッセージを受け取れば、私に向けてに限ってはリラックスしながら笑顔で打っていると信じるし、よく信じていた)。

解は、その人の脳内世界で決められその人の脳内世界で通用する(肯定される)限りはいつも正しい。人工知能に匹敵する正しさを持ちうるもう一つの解、 “脳内解”。

ガールズバーのカウンター越しの嬢は、個々の客のイメージのきっかけとしてそこにいる。チャージが発生しないところで彼女に会うことは叶わない。

だから、LINEをする。直(じか)に面前する楽しさを補う、 “イメージを信じる力”を育んでいく。文面に匹敵する(彼女の)表情を、声色を、笑顔を、想いをイメージに描き、自らの内に築く。

流れで、 “ゆるキャラ”という無限言語も生まれた。

人々の数値に対する準絶対的信頼も、イメージという地底の底の底を流れる川で脈々と繋がっている。年末に運の良い人が貰える7億円とか、1470万ベクレルとか、腸内何とか菌1億匹とか、棋力2900とか、体感の出来ない数値はその数値の実質を掴(つか)める専門家以外の殆どの人にとって、極めて通用性の高い、純然たるイメージだ。

歌唄い “ASKA”の言葉を借りるなら、我々は “科学は正しいと言う迷信の風で育った”(『晴天を誉めるなら夕暮れを待て』)。数値が化けたイメージは、とりわけイメージの中にあって、他の人にも通用する正しい像と錯覚しやすい。

とにも、数値であれメッセージであれレビューであれ、断片的ゆえに先端の鋭く完成度の高い部分像から、我々は残りの部分を自らのイメージで補い、その全体像を脳内に造り出す。検索に於いて分子化された他者も、検索者の脳の中に於いてのみ実体のような像を結んでいる。

検索は集中する。一つの対象に皆が熱中しつつも同床異夢にある。 “現代の同床異夢”とは、それぞれの指先から、カリスマ某たるイメージの温床が放つ断片的メッセージに繋がり、それを枕にそれぞれの夢を見る。

理屈で伝えるよりも、イメージの結像は遥かに速く、人々はイメージの旗の下にバラバラと集う。集まった人たちの数値(アクセス数)がまた次のイメージの元となる。

「メキシコとの国境に壁を作ろう、メキシコ人の金で!」

大統領選候補者のかの有名な一言は、鬱屈した熱の捌(は)け口を苛烈に求める鬱屈した人たちのイメージを大いに喚起した。

「スコップとバケツを持ってメキシコ国境付近に集え!」

ならその数、半分も集まらなかったろう(それでは鉄の時代向けの古い唄だ)。集まったところで、実際に土を掘り始めた辺りで事のバカバカしさに気付いたろう。

銘々勝手なイメージ熱は、アクセス数・賛同者数という、強固な塊をイメージさせるもう一つの数値となり、追い撃ち的にその数値に更に人々は酔いしれ、乾いた熱い突風が、戦前は不利だった、政治家としては無名の一人の人間を大国の大統領の地位にまで噴き上げた。男は味をしめたか、大統領の座に就いてなお、指先で呟き、世界を惑わしている。

熱は、何処か遠い世界に起こる別次元原理に基づく現象の様にも思える。私はそれを指先で探り眺めながら、それぞれの一人として、独り、怯えている。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。