ブルーベリードリーム

十三年間勤めた東京の出版社を辞めて、故郷の長野に戻った。何かをしようと決めた訳ではない。毎月締め切りに追われ、取材に追われ、文字に追われ……。そんな毎日の中で、やりにくい上司との関係にも疲れ、長い目で将来を考えた時に、健康的に穏やかに過ごしたいと、シンプルにそう思ったからだ。

一度東京に出てから実家に戻る、というのはかなり勇気がいる。故郷に錦を飾るでもなく、近所の人にはリストラに見えたかもしれない。答えに戸惑うようなことを親が何も言ってこなかったのが唯一の救いだった。

ただ、ちょっと出かけるにもやはり目立ってしまうので、僕の行き先は同級生の兄が営んでいる喫茶店がほとんどだった。入り口のドアを開けると「カランコロン」と音が響く。店内には彼の趣味であるレコードがたくさん置いてあり、レコードプレーヤーから流れる懐かしい曲も耳なじみがいい。

そこで珈琲を飲みながら、ずっと読みたかった本を読む時間が一番リラックスできた。珈琲がなくなった頃にさりげなく二杯目を持ってきてくれる彼の心遣いも嬉しかった。

家での居場所、まだかろうじて残っている自分の部屋には、映画のポスターを貼っていた画鋲の跡。そういえば、と押し入れの中のダンボール箱を開けてみると、映画のパンフレットや懐かしい写真、ノートなども出てきた。懐かしさに浸りながら、それらを見て今までの日々を振り返ったり、これからの日々を考えたりもした。

そんな毎日を続けているうちに、体を動かして、汗をかいて仕事をしたいな、と思えるようになった。この町にはそうやって暮らしている人たちが多く、子供の頃から自然の匂いは好きだった。

いつもは乗らないバスに乗って、さほど遠くないバス停で降りて、少し歩いてみた。太陽が眩しすぎて、そろそろ引き返そうかと思ったその時、たまたまその農園を見つけた。

緑の木々に囲まれているエントランス、どうやら奥には摘み取り農園があるらしく、山間にも整備された農園がいくつかあった。

空の青、木々の緑、眩しすぎる光。鮮烈なその印象はなぜだか、これが運命的な出逢いなんじゃないかと僕に思わせた。

※本記事は、2020年8月刊行の書籍『君と果実を』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。