天才の軌跡① フロイトの疑問

フロイトが三才の時、一家はライプニッヒで約一年間をすごし、一八六〇年ウィーンへと移住している。アーネスト・ジョーンズは、この間の事情として、鉄道がフライバーグを通らず、町が不況になったこと、ユダヤ人への偏見が強くなりつつあったこと、及びフロイトへの教育の配慮を挙げている。

この時、異腹の兄二人もロンドンへと移住しており、フロイトが後年イギリスに好感を持つ原因となっている。前述の市長への手紙に見られるような、幸せに満ちたフライバーグからの旅はフロイトにとって苦しいものであったに違いなく、フロイトが後年列車恐怖になったのもこの時の経験が関係していると考えられている。

ウィーンでの生活も最初の三、四年間はあまりめぐまれたものではなく、フロイトは思い出すに値しないものだと言っていたという。彼は九才まで父と母に家庭で教育を受け、その年の秋に試験を一年早くパスして、高等学校(ギムナジウム)に入学して、八年間在学している。

彼は勉強の虫と言ってよいほどで、時間を惜しんで、夕食は彼の部屋で、勉強の合間に食べるほどであったという。この結果、最後の六年間はこのギムナジウムの中で一番を通して、優等生として卒業している。

『夢判断(上)』(フロイト/高橋義孝訳 新潮文庫)によると、フロイトが十二才の時、彼は父から若かった時の話を聞かせされている。フロイトの父が新しい毛皮の帽子をかぶって歩いていると、ある男に帽子をドロの中へたたき落とされ、「ユダヤ人、舗道を歩くな」と怒鳴られたと言う。

フロイトが父にそれでどうしたのと尋ねると、父は「車道へ降りて、帽子を拾ったさ」と答えた。この時以来フロイトは、ローマ軍をアルプス越しに破り、父ハミカルの屈辱を晴らしたセム系(ユダヤ人もこの人種に属する)の英雄ハンニバルを空想することが多くなったという。

彼が医学を選んだのは、自伝によると、自然の事象よりも、人間に関心があったことや、ダーウィンの説に引かれていたことを挙げ、決意したのは、ゲーテの自然についての随筆が朗読されるのを聞いた時であるとしている。彼は十七才でギムナジウムを卒業すると、その秋にウィーン大学の医学部に入学した。彼は学生時代、解剖学、生理学に興味を持ち、特に生理学のブルック教授のもとで、魚の脊髄細胞についての論文、ザリガニの神経細胞の神経線維についての論文を書いている。

彼は一八八一年に二十四才で医学部を卒業し、すぐブルック研究所で研究を続けている。この間、フロイトは経済的にあまり振るっていない父に経済的に依存、ブルックの研究所を一八八二年にやめなければならなかったのも、経済的理由であったという。

彼の自伝には、この経済的理由しか挙げていないが、後に結婚することになるマルタ・ベルナイスと恋に陥ったことも関係しているといわれている。そして一八八二年七月より、ウィーン総合病院で住み込みの医師として働きはじめている。

※本記事は、2019年6月刊行の書籍『天才の軌跡』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。