第一部

一〇

このように、高梁川河口西岸の玉島地区は明治以後次第にすたれていったわけだが、一方の東岸一帯は、その後も長い年月をかけて干拓によって陸地が次第に広がり、ここに昭和の時代になって水島コンビナートが形成され、戦後の経済成長に大いに貢献した。

こう考えてくると、高梁川の河口一帯は、江戸期には赤間関(山口)、広島や鞆(広島)、室津(兵庫)などとともに玉島港が瀬戸内海の主要交易港として栄え、一方、明治期以後には、昭和の時代になって水島コンビナートが、周南、下松(山口)、大竹、広島、福山(広島)、それから、四国で坂出番の州(香川)、新居浜、西条(愛媛)などとともに、瀬戸内工業地帯を形成し、この地方の発展のみならず、日本の経済成長に大きく寄与してきた。

つまり、高梁川は江戸時代から現代にいたるまで日本経済に大きくかかわってきた河川と言えるだろう。このような形で、河川の河口一帯が発展したケースは他ではあまり見られない。

さて、ここで阿賀崎に移住した興三右衛門の話に戻すが、詳細は分からないが、前述のように干拓事業や交易の仕事など手広くやっていたらしい。江戸時代、玉島港(阿賀崎港)には、数十軒もの廻船問屋があり仲買人も大勢いた。

移住した時期には、新田開発もほぼ終わっていて、むしろ、綿花や加工品の交易が大変盛んであったことを考えると、仲買人かそれに関連した商売をしていたのではないかと考えられる。いずれにしても、財をなして大きな門構えの豪邸に住んでいたようである。

佐治衛門の家に女子しかいないからと婿養子を探していた頃、丁度、興三右衛門の家系に忠左衛門という適齢期の男子がいた。その話を聞いて、婿養子の話をこころよく了承してくれたことを考えると、数代前に分家した親戚だったが、まだ、親しい付き合いが続いていたのだろう。

ついでながら、話は相前後するが、白河一族の中で高梁川河口の西岸にある玉島(阿賀崎)だけでなく、河口の東側に移住した親族がいた。そのルーツは戦国時代にまでさかのぼらなければならないが、この時、第一部でも紹介した京から備中に派遣されてきた先祖の白河右京ノ介。この右京ノ介の子孫の一人が新天地を求めて、当時干拓事業が盛んに行われていた高梁川河口の東側に位置する倉敷中島に移住したのである。

倉敷の中島と言えば、いまでは国道2号線とそのバイパスが通り、沿道には商店が軒を連ね、大変繁栄して倉敷西部地区の中心地となっているが、江戸時代の初め頃にはこの辺りまで海辺だった、そして、当時からこの辺りは干拓事業が盛んに行われており、この子孫は干拓事業を手がけるために中島に移住したと言われている。そこで手広く事業を拡げて、その末裔も代々受け継ぎ相当な財をなしたようである。

これは、のちになって分かったことだが、右京ノ介と同じ系譜である佐四郎一族の系図がそのまま中島に移住した親族の白河家に残されていた。このことから察して、江戸期には、お互いにかなり親戚付き合いをしていたことがうかがえる。いずれにしても、白河一族は、高梁川河口の両岸でそれぞれ事業を展開して生計を立てていたわけで、この河川に深い縁を感じるのである。

※本記事は、2019年8月刊行の書籍『高梁川』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。