天才の軌跡① フロイトの疑問

フロイトは一八五六年五月六日に当時、オーストリア― ハンガリア王国の片端、フライベルクという四千五百人の人口の町(現在チェコ共和国)に、ユダヤ人を両親として生まれている。

この人口のうち百三十人がユダヤ人であったという。フロイトの父ヤーコブは羊毛商人であったといわれているが、小商人と言った方が適当で、羊毛、麻、獣脂、蜂蜜、毛皮などを、当時オーストリア領であったガルシア地方(現在ウクライナ)から買い入れ、フライベルク及びその近郊で織られた布を染色してグルジアに売るということで生計を立てていたらしい(アーネスト・ジョーンズによると織物の工場を持っていたともいう)。

一家は、フライベルクに市民として居住していたわけではなく、大目に見て居住を許されていたユダヤ人として暮らしていたのである。彼の生家の写真を見ると、二階建ての正面に七つの窓がある、それほど大きくもない家である。

ジェイコブ・フロイト一家はこの鍛冶屋の家の二階に部屋を借りて住んでいたのである。当時ジェイコブは再婚しており、先妻とのあいだには四人の子供がいたが、二人は幼児期に死亡、長男(当時二十三才)と次男(当時二十一才)はフライドバーグに住んでいた。

長男エマニュエルの息子ジョンはフロイトより約九カ月年長で、娘ポーリンはフロイトより六カ月年下であった。フロイトとこの二人の甥と姪との幼児期の関係が、フロイトの性格形成と深い関係があることは、フロイト自身が気づいており、また、多くの伝記に書かれているとおりである。

フロイトの母、アマリーはジェイコブより二十才以上も年が若く初婚であり、彼女にとって、フロイトは長子であった。

生後七日目にフロイトは、ユダヤ教の儀式にしたがって割礼を受けている。このような儀式が去勢不安及びエディプス・コンプレックスの理論に影響を与えているのは言うまでもないであろう。しかし、フロイトの両親はユダヤ教の熱心な信者と言うには程遠く、チェコ人の子守りが、フロイトをカソリックの教会によく連れて行くのに何らの反対もしていなかったようで、フロイトは家に帰って、教会で聞いた天国と地獄の話をくり返し両親にしたという。

後年、フロイトはユダヤ教に非常に興味を持っていたが(『モーゼと一神教』などの著書)、無宗教主義であったらしく、ユダヤ人の友人であった、フリースとの手紙にも日付として、キリスト教の祝祭日しか使っていない。これはユダヤ教にそれほどとらわれていなかった家庭環境に影響されたものであろう。

※本記事は、2019年6月刊行の書籍『天才の軌跡』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。