第二章 渡来人に支配された古代ヤマト

7.ユダヤ系同士の覇権争い

先に述べた、国譲り戦前の倭国に戻る。魏による倭国間接支配の代理人である伊都国王のもとに、これも魏(帯方郡)の軍事支援を受けた崇神が任那から渡来し、伊都国王に代わって新しく伊都国王になって、出雲との国譲り戦を伊都国から開始した。それまでの伊都国王の協力者=ユダヤ系の[秦氏+秦の民(秦人)]および[阿曇氏+海の民(阿曇目)]は、そのまま崇神軍に参加したのである。

一方の出雲国の協力者は、市寸島比賣命(中津島姫命)のところで説明したように、宗像氏である。すなわちユダヤ系秦氏でもある。

具体的な名前で示すと、大国主(出雲本国)の協力は、[宗像氏+宗像の民]であり、饒速日(大和)の方への協力も、[宗像氏+宗像の民]である。阿曇氏も宗像氏も海運(海軍)を得意とする一族であり、それぞれの配下に海人を持っていたので、日本海や瀬戸内海の制海権の帰趨は、阿曇氏と宗像氏の海軍力の優劣によることになる。

以上の構図を簡単に示すと、以下のようになる。

[図1] 国譲り戦前の倭国

戦いの行方は海軍の力(制海権)ばかりではなく、戦闘員の数、戦略の優劣、武器の強弱、兵站部門の機敏性、さらにはリーダーの資質や経済・財務を含めた総合力に左右される。国譲り戦では、まず武器の強弱という点で、出雲方に弱みがあったように見受けられる。

というのも出雲国では、出土する銅剣や銅矛など(銅鐸も含めて)大量の青銅器が、大急ぎで埋納されて隠されたように見えるからである。鉄製武器は腐食によって失われてしまったであろうが、出雲国では鉄製に比較して、青銅製武器の比重が大きいように見える。

当時の倭国の遅れた軍事情勢のもとでは、鉄製の最新武器を大量には必要とせず、切れ味と強さに劣る銅剣や銅矛に頼っていても、出雲の覇権確立の支障にならなかったようにも思われる。すなわち西日本における銅剣や銅矛の分布は、鉄製武器に頼らずとも可能であった出雲による倭国制覇を裏付けているようだ。

だから鉄製武器に関していえば、崇神側の方が半島での厳しい戦い方に慣れていた分、有利な展開ができたのであろう。このあたりは筆者の想像を交えているので、その簡略表現とは別に、史料的な厳密さには欠けることをお詫びしなくてはならない。しかし考古学的には、出雲を中心にして遠く九州や四国・近畿の一帯から出土する、それら半円形を示す分布図(図2)は、出雲国の最大版図にほぼ近い領域を暗示しているように見える。

[図2] 弥生時代中期の青銅祭器の分布
「出典:寺沢薫『王権誕生』に基づき作成」から転載

この分布図は銅鐸を除いて考えれば、武器としての青銅器そのものの偏りを示すものではなく、祭祀具としての青銅製武器の分布である。けだし祭祀の本質的な部分が、実戦での青銅製武具の使用を反映していると思われるので、その戦果を実感した人々にとっては、武器の青銅器=祭祀の青銅器として、二つの分布を重ねて考えてよいであろう。

国譲り戦で出雲の敗退が決まった時、これらの祭祀用青銅製武器は、その地方の出雲圏の豪族たちには危険な代物になってしまった。それらは出雲へ協力した証拠になってしまうから、墳墓やその他に、早急に埋納する必要が生じたのだ。

そして祭器ではなく、実際に戦闘に使用した鉄製や銅製の武器は、当然ながら勝者側が没収して、しかるべく再利用に回されたのであろう。古代出雲がユダヤ系首長の国であったことを前提にすれば、倭国最初の覇権国出雲の宗教政策は、他の国々の具体的な祭祀に対して、かなり許容度が高かった。

彼らにユダヤ的な一神教を強制せず、銅鐸を利用した鳥装巫女の巫術を尊重し、九州の銅戈・銅矛祭祀も認めていた。しかし新しい覇者崇神は、出雲の宗教政策とはやや異なり、銅戈・銅矛や銅鐸よりは、鏡や勾玉・剣などの神器を好んだように思われる。

前代の青銅製祭祀品を直ぐには不許可としなかったが、銅鐸などは次第に埋納・破棄され、崇神の新しい宗教政策の産物として、三種の神器や神宝類を祭祀品とする「神社」(=ユダヤ教幕屋が変化したもの)が多くなってくるのである。換言すれば、歴史は銅鐸祭祀から神社祭祀へと移行していったのである。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。