はじめに

知られざる利休

ところで、信長の髑髏盃(どくろはい)はご存知ですか?  浅井久政・長政親子と朝倉義景の三つの頭蓋骨に金箔が施されています。その盃で信長は酒を飲む……。

大河ドラマではおなじみの場面ですが、その髑髏杯こそが、じつは、利休の茶碗の源泉なのです。利休の茶は戦国の荒ぶる魂を鎮めます。

陣幕での茶会は「一期一会」です。茶会は必勝を誓いもしますが、この世での「別れの儀式」でもあり、「死への旅立ちの儀式」でもあります。

本作品は、利休が「陣幕の茶」を、イエス・キリストの「最期の晩餐」と見立てることから話は進みます。利休はあの狭くて暗い茶室をなぜつくったのか?  それはイエス・キリストが囚われていた「牢獄」を利休の「茶室」と見立てたからです。

茶室は牢獄ゆえに狭く、牢獄ゆえに「にじり口」があり、そして格子の入った小さな窓は牢獄の鉄格子です。そして読者の誰をも驚きの利休の世界に誘いこみます。

城マニアにも読んでほしい

話は変わりますが、本文では、安土城(信長)、金沢城(利家)を取り上げました。「はじめに」では安土城を取り上げましょう。

これは城マニアへの挑戦状でもあるのです。海抜200mの安土「山」にあえて信長が安土城をつくった点です。

世は平城の時代になっていました。秀吉は浅井長政の山城(小谷城)を廃城にして、今浜(長浜)の平地におろして長浜城をつくったにもかかわらず、信長はなぜ安土「山」に安土城をつくったのでしょうか?

山城といえば、竹田城(兵庫県)、越前大野城(福井県)、備中松山城(岡山県)ですが、海抜は354m、249m、430mです。安土山の200mはいかにも中途半端です。しかも、当時の安土城は水城でした。

なぜ、信長は安土城を「山城」で「水城」にしたのでしょうか?  本書を読み進めれば、安土城の驚きの秘密を知ることになるでしょう。そして誰もがまだ知らない驚きの信長の世界に誘いこまれるでしょう。

古九谷──信長と利休の「髑髏盃」を追う

本作品の結論部分です。古九谷という「謎の多い焼き物」はいったいどのように誕生し、ほんの20年ほどの歴史を残してあっさり消えてしまったのはなぜか。人気のある戦国末期の諸相をからめながら、信長と利休の「髑髏盃」を追い、「古九谷」には信長と利休の残影があることを語ります。

古九谷の名品はゴッホやマティスやセザンヌの油絵をみているような錯覚に襲われます。しかも古九谷は江戸初期、彼らよりもはるか200年も前の芸術作品なのです。ではその奇跡の古九谷をいったい誰が、なぜ、どのようにしてつくったのでしょうか?

※本記事は、2020年5月刊行の書籍『古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。