第2章 仏教的死生観(1)― 浄土教的死生観

第7節 心中と浄土信仰

こうして、『平家物語』において、小宰相(こざいしょう)は、一の谷で戦死した夫の平通盛(みちもり)を追って「必ず一つ蓮に」と願い「南無」と唱える声ともに入水自殺したし、『太平記』では武士たちやその妻子たちが「南無阿弥陀仏」を唱えて集団自殺した。

中世から昭和まで続いた説教節の『刈萱(かるかや)』では一族離散の家族も最後には浄土で再会を果たす。さらに室町期の物語では男色と同性愛による後追心中が描かれ、江戸初期の仮名草子『恨の介』『竹斎』に引き継がれる。物語だけではなく、現実でも寛永17 ・一六四〇年に恋仲の美少年(伊丹左京と舟川采女(うねめ))の後追心中が発生している。

そうして小林によれば、天和3・一六八三年、「男女が思いつめ、同意の上で、しかも一緒に死ぬ事件」が起こった。大阪新町の遊女市之丞と遊客の長右衛門の心中で、近松門左衛門はこの市之丞心中が最初の心中だと認めているという。

次いで、元禄6・一六九三年、名古屋で「理助・ふり」の心中が起きた。『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』の筆者・朝日文左衛門がこれを記録している。

それによると、同年6月8日、午前2時頃、お寺の門前で、理助24歳がふり23歳を刺し殺して、自分も死んだというもの。文左衛門(当時20歳)らが、「心中だぁ」の声に駆けつけたとき、女の方はまだ息が絶えていなかった。

「心中の原因は、理助の親が、京で水商売をしていた過去をもつふりとの結婚に強く反対したからである」。ふりは戸板に運ばれて実家に帰るが、医者の薬を拒否、翌日の夜に死亡する。

「書置」には「誠に夢幻の世の中けふ迄は色よく咲栄へ 明ければ散て影もなし(中略)無常成(なる)世の中 あはれ不便(ふびん)と思召(おぼしめし) 心あるかたは一返の念仏をも頼入 (たのみい)りまゐらせ候」云々の文章と、「恨の哥(うた) 辞世」として「よしや君かく成(なり)ぬとも諸友(もろとも)に 玉の台(うてな)に乗(の)りたるをまて」「これやこの今煩悩の綱切れて 浄土に帰ることぞ嬉しき」などの歌が残され、理助の辞世歌も「もの思う身のかなしみはふりにけり 今宵一夜の嬉しさをしれ」ほか一首残されていた(註:神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』中公新書 昭和59年より引用。

なお、「ふり」は女性の名と「古(ふ)り」の掛詞)。

※本記事は、2019年1月刊行の書籍『オールガイド 日本人と死生観』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。