Ⅱ 『古事記』を歩く

── 紀行による「神武東征伝承」史実性試論

三 東征経路を辿(たど)る・2
── 速吸門=鳴門海峡説を考える

目が覚めたのは四時半を少し回った頃である。あたりは薄闇に包まれていた。眼下に鳴門海峡を見渡せる高台の宿。波音はサッシ戸に遮られて、まるで無声映画を観ているようだ。

やがて、対岸の山並みのかなたが明るさを増してきた。大型船やら中小の船が行き交い始める。大潮時の平均潮流は八・ 二ノット(毎時約一五・二キロメートル)。日本で一番潮の流れが速い海峡がここである。

淡路島の南端が目の前にはっきりと見えてきた。潮目に逆らって進む小さな船が、放物線を描くようにして海峡を横切ろうとしている。直角に横切れば、潮流に押し流されて目的地の遥か下方に到着してしまう。

何でもないことかもしれないが、海の生活者の知恵が垣間見られた。大型船でも潮目に逆らって進むには難渋している様子が窺える。まして機械力を知らない時代、この鳴門の渦潮は潮流を熟知した案内人がいなければ、難儀したことであろう。

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そんな思いを抱きながらも鳴門海峡を目の前にして、ここが速吸門(はやすいのと)だという確証が得られないまま旅立ちの朝を迎えた。

朝食前の時間を利用して、まだ建設中であった大鳴門橋の工事現場近くを散歩した。隣り合わせて吉川英治の『鳴門秘帖』の文学碑が建つ公園がある。そこからの眺めは朝日に映えて大変美しい景観であった。

何の収穫もない旅に終わりそうな未練がましい気持ちを抱いて、淡路島南端の港・阿那賀行きのフェリーに乗り込んだ。出発港は亀浦といった。なるほど海岸を離れて島の形がはっきりしてくると、この島はまさに亀の形を想わせる。島の先端部が亀の首、中心部が甲羅を背負った胴体そのものだ。一瞬 『記紀』の一節が思い出された。

吉備の高島宮に八年坐しき。故(かれ)其の国より上り幸でましし時、亀の甲(せ)に乗りて、釣しつつ打ち羽ぶき来る人、速吸門に遇ひき。爾(ここ)に喚びよせて、「汝は誰ぞ」と問ひたまえば、「僕(あ)は国つ神ぞ」と答へ曰しき。又、「汝は海道(うみつじ)を知れりや」と問ひたまえば、「能く知れり」と答へ曰しき。又、「従(みども)に仕へ奉らむや」と問ひたまえば、「仕え奉らむ」と答へ曰しき。故ここに槁機(さお)を指し渡して、其の御船に引き入れて、即ち名を賜ひて、槁根津日子と号けたまひき。〈此は倭国造等の祖なり〉──「古事記・神武天皇の条」

『日本書紀』では、ほぼ同様の内容がその場面を宇佐寄港前に変えられている。神武の「汝は誰ぞ」という問いかけに対して、次のように応答が出てくる。

臣は是国神なり。名をば珍彦(うづひこ)と曰す。曲浦(わだうら)に釣魚(つり)す。天神の子来(みこい)でますと聞(うけたまは)りて、故即ち迎へ奉る。

常識的に考えて、浦島太郎でもなければ、人間が亀の背中に跨って海を渡れるわけはないが、その人物が亀浦と名付けられた港及びその周辺領域の支配者であり、鳴門の潮流を自在に操れる航海民の一団の統率者、もしくは小説的に膨らませれば、異端の若者と想定するとこの場面はすんなりと理解できるのでは。

加えて『日本書紀』では、この国つ神が、「珍彦」と名乗っている。「珍」は「宇豆(うづ) 」と注釈されているが、これが「渦」に置き換えられるとすれば、鳴門の渦潮を掌握している人物となり、速吸門=鳴門海峡説が現実味を帯びてくる。

『記紀』の伝承記事はまんざら根拠のないものではなかったようだ。

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※本記事は、2019年7月刊行の書籍『神話の原風景』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。