Ⅱ 『古事記』を歩く

── 紀行による「神武東征伝承」史実性試論

二 東征経路を辿(たど)る・1
── 吉備路風土記の丘

倉敷は新旧の街並みが混在するメルヘンチックな街である。

アイビースク エアと蔵屋敷町を中心とした一帯は大原美術館をはじめ、歴史館・民芸館・ 郷土玩具館等々、文化の薫りと旅のやすらぎを求めて旅人が集う場所である。

その一角にある倉敷考古館は、吉備の古代文化の研究と紹介を精力的に展開している間壁忠彦さんが館長を務めていて、「吉備路風土記の丘巡り」の出発点としては格好の場所である。

吉備路巡りは、備中国分寺の五重塔や比翼入母屋造り(一名、吉備津造り)と呼ばれる独創的な建築様式で名高い吉備津神社、また東洋一と評判の大石灯籠を誇る吉備津彦神社など建築学上から見ても見応えのある史跡が多い。

だが何といっても主役は全長三五〇メートル、全国で四番目の規模を誇る前方後円墳の造山古墳であろう。

庚申山だったかと記憶する。石段を登っていくと、小高い山のてっぺんに古びた社(やしろ)が祀られている。高松城の水攻めに当たって、ここに吉川元春の陣が敷かれたと伝わる。

神社のさほど広くはない境内から前方を見下ろすと、平野部の中央にこんもりと小山のように盛り上がった地点が浮かび上がっている。これが作山古墳(総社市三須・全長 二七〇メートル)と並んで、古代吉備王国の権勢を偲ばせる盟主墳というべき造山古墳だ。

構造的には上・中・下の三段に墳丘が造られ、埴輪の円筒列が巡らせてあったという。石段伝いに前方部に上るとそこに小さな社が設けられ、かたわらに石棺が露出したまま放置されていた。

造山古墳(岡山市新庄下)はいくつかの陪塚を従えているが、その中の一つに北部九州系古墳と類縁性を持つ千足装飾古墳がある。

割石小口積み技法 で構築された横穴式石室を有する前方後円墳で全長は七二メートル。石室には石障を組み合わせた石槨が設置され、その一面に直弧文が彫り込まれている。

石材も阿蘇泥溶岩(もしくは、それと同質のもの)を使用し直弧文の模様も福岡・石人山古墳(八女郡広川町一條)の石棺の浮彫を髣髴(ほうふつ )させる。九州で製作されて持ち込まれた可能性が高いという。

これから見ても分かるように、九州と吉備とは同盟関係というか、同質の文化圏に属していたのであろう。吉備は東征軍の後方支援基地というか、実質は戦闘部隊の中核的な役割を果たしていたと推察される。

* * *

吉備路風土記の丘で、もう一つ見落とすことのできないところが、倉敷市矢部にある楯築(たてつき)遺跡である。

地元民に「楯築さん」と親しまれている楯築神社には、高さ二メートル余に及ぶ五つの巨石が社(やしろ)を取り囲むように立っている。

また境内にある円丘(径約四三メ ートル)の発掘調査で排水施設を伴う木槨墓が発見されたが、その製作年代について弥生期の墳丘墓とみるか古墳期の遺構か、学界でも意見の分かれるところである。

この遺跡で特徴的なことは、「帯を反えし潜らせ、巻きつけたような弧状の文様」を伴うご神体の「竜神石(亀石)」と、それと似た文様が線刻された「弧帯石(こたい せき)」である。

吉備と大和の文化との類縁性が指摘される今日(こんにち)貴重な遺跡であり、吉備の古代文化の解明が日本古代史の謎を解く鍵を提供することであろう。

[図1]楯築神社の御神体「亀石」
※本記事は、2019年7月刊行の書籍『神話の原風景』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。