Ⅱ 『古事記』を歩く

── 紀行による「神武東征伝承」史実性試論

一 東征発進の地・日向
── 「神武天皇実在論」を考える

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一つの素朴な疑問がある。神武らは航路を外れてまで、なぜ筑紫(岡田宮)へ立ち寄らなければならなかったのか。豊国の宇沙や阿岐国の多祁理(たけり)宮、また吉備の高嶋宮に立ち寄るのは航路の途上であり、兵員や物資の補給基地として素直に理解できよう。

日向に都(拠点)があって当初から東征が第一の目標であったならば、関門海峡を越えてまで、なぜ筑紫の岡田宮──『日本書紀』にいう岡水門(おかのみなと)──へ立ち寄ったのか。その理由は奈辺にありや?

邦光史郎は『古事記を歩く』の中でこの神武東征伝承に触れ、さすがに推理小説家らしく鋭い嗅覚を発揮してこう指摘している。

「この日向が宮崎県の日向なら、東に行こうというのに、どうして北西に当たる筑紫(福岡)へわざわざ行ったのか」と。

ただ残念なことに彼は自問自答したあげく、「どうも、この筑紫は北九州というぐらいの意味で使っているのだろう」とぼやかして、追及の手を緩めてしまっている。

また、角度を変えて見た場合、東征軍というかその軍団の統率者は誰であったのか。

日向を進発した神武らが現地において高らかに宣言した如く、「東の方面に天下を統治するのに相応しい理想の国土がある」と確信していたのなら、なぜ筑紫に一年間ももたもたと滞在していたのか。

そこが父祖に関連した土地だからか。戦勝祈願のために武運長久のご利益がある神様に詣でたのか。あるいは支援部隊の要請に出向いたのか。いずれにしても何か説得力に欠けているように思われる。

これに対する回答として考えられることは、東征軍の統率者は筑紫の岡田宮に居たという帰結である。とすれば、神武の兄・五瀬(イッセ)ノ命は──いや当時においては、ただ単に五瀬とすべきか──さだめし日向軍団とでもいうか、一部隊のリーダー的存在に過ぎなかったのではないだろうか。

でなければ、 わざわざ航路を外れてまで、筑紫へ立ち寄る道理がないのではないか。一つの想定だが、イツセやサヌ(神武)たちは、筑紫の岡田宮なる「東征軍の統 率者」の招集を受けて、一旦宇沙に集結し、一軍団となって、岡田宮に出向いたと解するのが真相ではないかと思われる。

フェリーは豊後水道を北上し、 四国西端の佐田岬を右手に見ながら、一路阿岐国=広島目指して進んでいっ た。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『神話の原風景』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。