男は遥にWi-Fiのパスワードを尋ねた。

久しぶりに日本語を話したので、遥はなぜか少し緊張したが、雨の日はインターネットの接続がよくないことを教えてあげた。

「あー、そういうことか。前に来たときは、すぐに繋がったからおかしいと思ったんだ。確かに前に来たときは晴れていたな」

男はスマホをいじりながら言った。

「以前、ここに宿泊したことあるんですか?」

「ええ、先月来たんです」

男はスマホを眺めながら、Wi-Fiの電波を探していた。

「あ、ここならすごくつながります。よかったらどうぞ」

遥は自分の座るソファを指さし、腰を上げて少し横にずれた。

男は一瞬きょとんとしたが、礼を言って遥の隣に腰を下ろした。

「宇山祐介といいます。はじめまして」

「あ、遥です」

シャワーを浴びてすっきりした様子の祐介からは、石鹸のいい香りがした。

「ご旅行ですか?」

「あ、いえ、仕事で来ました」

「仕事? バンコクで?」

「はい、知り合いがマッサージサロンとゲストハウスをやっていて、その手伝いに」

「へぇ、うらやましいな。海外で仕事ができるって。日本でもそういう仕事していたんですか?」

祐介の話し方は、風貌の印象と違って優しかった。

「それが……実は全然やったことないんです。日本ではずっとカフェの店員をしていたので」

遥は少し話を整えるように話した。

「え? そうなの? 何でその仕事を?」

祐介はそう言ってスマホを操作する手を止めた。

「友人が誘ってくれたんです。知り合いがタイでマッサージサロンを立ち上げたから、一緒に手伝ってくれないかって。でも、私、タイ語もできないし、マッサージもやったことないし、これといって資格を持っているわけでもないし……ほんとに来てよかったのかなって、思っていたところなんです」

遥が出会ったばかりの男性にいきなり胸の内を話したのは、しばらく誰とも会話ができなかったストレスだったのかも知れない。このとき、遥は今の自分の不安をマシンガンのようにぶちまけた。この雨のせいで下がり始めたモチベーションのことも、一人でバンコクにいる不安も。祐介はそれを遥の隣で静かに聞いていた。

一通り話してからふと我に返った遥は、恥ずかしさと自己嫌悪で、胸の奥が気持ち悪くなるのを感じた。

「自分の話ばかりたくさん話してしまってすみません……」

と慰め程度の言いわけを口にすると、祐介はケロリとした顔で、

「全然かまわないけど」

と笑って言った。

それから祐介は、両手を頭に組んで天井を見ながら、何かを思い出しているような仕草をしていた。雨が屋根を激しくたたいていた。

「遥さんのお友だちは、手伝ってほしいって言ってくれたんですよね?」

雨音が少し小さくなった頃を見計らったように、祐介は口を開いた。

「えっ? あ、はい」

「大した話じゃないんだけど、僕も少し前に似たようなことがあってね」

祐介は謙虚にそう言いながら、友人に誘われて音楽教室の講師になったことについて話し始めた。

「自分の評価って、意外と自分でちゃんとできないって思いません?」

祐介は腕を前で組みなおしてから、自分の性格を見つめなおすように言った。

「そういうときって案外、友人だったり職場の人だったり家族だったりのほうが、詳しく自分のことを評価してくれていたりしませんか?」

「なるほど、確かに……」

遥は突然始まった祐介の話に思わず聞き入った。

「仕事を一緒にやるうえで技術がある人間も魅力的ですけど、こういう場所では異国での適応力とか、コミュニケーション能力とか、好奇心とか、そういうもののほうが大事だったりすると思うんですよね。あと重要なのはお互いの話しやすさとかね」

そう言いながら祐介はニコリと笑った。

「何が言いたいかっていうと、僕だったら“これから異国で仕事しよう”っていうときに、テキトーに友人に声をかけることはしないなってことです」

遥は目の前に急に現れた祐介が、まるで自分の言ってほしいことを見透かしているかのように思えた。

“なぜ香織は自分を選んだのか?”

しばらく遥の頭のなかにかかっていた霧がスッと消えたような気がした。

「ありがとうございます! なんだか、すっごく楽になりました」

「ご友人は遥さんと一緒にやりたかったんですよ、その仕事を。選ばれたってことはそれだけ遥さんに魅力があるってことです。絶対に自信を持っていいと思います」

外の雨脚は一層強くなり、跳ね返った雨が掃除したばかりの床をいたずらに濡らしていた。

「祐介さんは、旅行なんですか?」

乾いた長髪を束ね始めた祐介に遥が尋ねると、彼は「ええ」と答えた。

「どれくらい旅行されているんですか?」

「んー、今4ヵ月くらいだけど、タイに来てからは2ヵ月くらい経ったかな?」

「4ヵ月!? すごいですね! 何か目的があって旅をされているんですか?」

「目的というか、うーん、まぁそんな感じです」

祐介は腕を組み直してから渋い表情で言った。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『旅するギターと私の心臓』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。