12月23日(水)

抗がん剤開始3日目

天皇誕生日。陛下、82歳。玄関に国旗を掲げる。この一角で祝日に旗を揚げる家が、うちを含めて3軒ある。2割ほどということになる。

澄み切った空気である。それなりに冷たいが、しかし暖冬と言えるのであろう。特別に寒さを感じた日は、この冬、まだ訪れていない。

一昨日抗がん剤の点滴を受け、昨日から朝夕1日2度の服薬を開始した。つまり今朝が、素人の考えでは、体中の“抗がん剤濃度”が一番高いときになる。どういう状態の朝になるか心配していたが、良子は平気な顔をしている。

指先は確かに冷え、冷たいものに触れると静電気が走るようなビリツキがあるらしい。それで指示された通り手袋をはめている。それ以外は別段の異常はなさそうである。私はほっとした。

ただ抗がん剤開始の前日まで滞りのなかった便通が、21日以来、ないという。これが今や最大の関心事である。不安であり、恐怖に近い。

「オナラは出る」
「そんなら通じているんだろう。慌てるな」

聞くと、便通促進剤の服用を中止したという。これは本人の判断に任されていたらしい。しかし昨晩、再開したという。朝に抗がん剤を飲んだ。三度目である。

顔色は良く、よくしゃべる。最初は気力のなかった読書も始まっている。食欲も出てきた。それでも食べる量は以前の半分以下なのであるから、出ない日があっても不思議でない、と私は思った。そうは思ってみても、不安だった。

昼前に、良子は2階へ上がってきて、「出た出た」と言った。

「出たか!」
「出た」
「良かったなあ! バンザイ」

私の気持ちはいっぺんに軽くなった。オナラとうんこは本当に大切だ。

ところで私のうんこであるが、良子に付き合って野菜たっぷりの食事になり、大腸ポリープ切除後の禁酒期間に入っているので、素晴らしいものが出る。量、形状、硬度、色、最高である。

12月31日(木)

大晦日

静かな年の終わりである。何よりもこのとき、良子が家にいてくれることを感謝する。もし良子がいなかったら、私の心はどれほど空虚で暗いだろう。

25日に17日に受けた大腸ポリープ検査の結果を聞いた。小さいのを一つ取っただけのようである。今までの記録をプリントアウトしてもらった。

最初に受けたのは2008年6月26日で、私が66歳のときである。このときは10個近くを取ったと思う。私はモニター画像を見ていた。

一度にこれ以上は危険があり、何回かに分けてやりましょうと言われた。検体検査の結果、がん細胞が存在したと聞いた。何個かは、内視鏡で取れる限界の大きさだったと聞いた。

事実、標本を見て驚いた。20㎜くらいあったと思う(良子の切り取られた腸を見た今、小豆のようなものであるが)。私は最近まで先生が大袈裟に言っていると思っていた。しかしポリープからがんになるケースはあり得たのだった。

健診で潜血反応が陽性だった。横着せず三田病院で精密検査を受けたのが正しかった。今では僥倖だったと思う。

最初は夥しい頻度で切除手術を受けている。2008年6月6日の次は、9月18日、10月29日、翌2009年1月22日、4月23日、8月28日。その後は半年おきとなった。2010年4月20日、9月2日、10月7日。、

その後年一度になり現在に至っている。最初の2回は麻酔なしでやったのであるが、その後麻酔をしていた。先日は久しぶりに麻酔なしでやった。随分きれいな内面であった。器具の進歩もあるのだろうが、最初のときほどには苦しくなかった。

これであれば次回からも、麻酔なしでやろうと思う。終わればすぐに帰れる利点もある。28日に「がん研有明病院」であい子と一緒に“がん検診”を受けた。

詳細の結果は出ていないが、胃袋だけはモニタ画面で眺めた。きれいなものであった。先生も検体採取の必要を認めなかった(あい子は組織を取られたそうである)。

29日に、しばらく断っていた酒を再開した。おいしかった。これで体重は徐々に復元していくのだろうが、最小値は69・3㎏を指した。70㎏を切った数字は記憶にない。20代、あるいは30代前半以来であろう。洗顔時に自分でも頬骨の出っ張りが分かる、あばらも出ている。

「私も50キロを切った」と良子は言った。入院前は59キロあったのが、10キロ痩せたのである。「お父さんも私に付き合うねえ」と言った。

28日、良子は、抗がん剤治療を始めて1週間の状態確認で、一人で病院へ行った。T医院で丸山ワクチンを射ってもらい、その足で病院へ行った。我が家から病院へは、距離は近いのであるがバスがつながっていない。良子は強度の近視で運転ができない。

タクシーはT医院から病院まで1000円、病院から我が家まで同じく1000円とのことである。同じ距離なんやねえ、と笑った。二等辺三角形ということになる。

慰安婦問題についての日韓合意があった。私は韓国の二つの裁判、「産経記者の名誉毀損、無罪」、「憲法裁判、却下」の判決を見て間髪を入れず岸田外相に訪韓を命じた安倍首相の決断に、今回は妥結すると思った。そういう「気合」があった。

同時にそれは、韓国に対する最後通牒であったと思う。安倍外交の切れ味を感じる。

「軍の関与」を認めたことを問題視する人もいるだろう。しかし軍が関与しなかった、与り知らなかった、というのは無理だと思う。軍にとって(いかなる軍にも、韓国軍も、米軍も、そしていかなる時代にも)それは重要な関心事のはずである。最大の、というより唯一の受容者が、その商品の由来にまったく関知しなかったとは、無理のある主張である。

ただ大日本帝国陸軍が、軍政・軍令として慰安婦の徴集を行ったことは、それはなかった、ということであろう。実際に先端で女を集めたのは、韓国ならば韓国人であった。日本人慰安婦を集めたのは日本人であった。「女衒」という言葉があった。

言葉があったことは、実在したのである。今もいるであろう、日本にも韓国にも。

その当たり前に考えられることに、韓国人は“白を切って”きた。慰安婦集めにおける韓国人の関与を『帝国の慰安婦』に書いた朴裕河(パク・ユハ)氏は、告訴された。どのような判決が下されるのか。

韓雲史氏がかつて、「良い日本人もいた、悪い日本人もいた。良い韓国人もいた、悪い韓国人もいた。それだけのことだ」と書いていた記憶がある(書棚のどこかにその言葉はあると思うが、どうしても見付けられない。『玄界灘は知っている』『玄界灘は語らず』のいずれかの中にあると思う)。

悪い韓国人もいた、ということを韓国人が認めない限り、歴史認識の一致など、あり得ないのである。今回の妥結は、非常に良かったと、私は評価する。安倍さんだからできたのであろう。

しんどいのは朴大統領の方だと思う。[時事通信]12月31日(木)15時14分配信によれば、朴大統領は国民へのメッセージで、「合意を受け入れず、白紙に戻せと言うなら、政府には元慰安婦の存命中にこれ以上何もする余地がないということを分かってほしい」と理解を求めた、という。

時事は配信タイトルで、“これ以上の合意無理”と記している。余計な注釈タイトルであるが、これは稀に見る率直な発言で、この通りなら朴さんを見直す。朴さんは安倍さんの財布の中にこれ以上ないことを認識したのである。安倍さんは財布の底を見せ、これだけしか入っていないことを朴さんに認識させたのである。

私は韓国が好きで、何度も行った。韓国で不愉快な目に遭ったことは一度もない。接する誰もが親切であった。

しかしこの数年、慰安婦を巡る余りのしつっこさにイヤになっていた。多くの日本人がそうであるだろう。貿易、旅行など、いろんな指標にそれは出ている。

この修復は年月を要すると思う。日本人は相当に痛めつけられた。10年では元に戻らないであろう。

静かな年の暮れである。おかげさまで良子もそれなりに元気で、徐々に食べる量も増えてきた。抗がん剤の副作用も、恐れたほどには出ていない。よくしゃべる。少しは料理もするようになった。

私は良子にわがままいっぱいをしてきた。良子はそれを受け入れてくれた。私は、自分が良子に与えることを、考えることはなかった。

それが突然、良子が、精密な硝子細工になった。はれものにさわる、もろいものになった。私はその良子を守る。そしてそのことに、まだ味わったことのない充足を感じる。それは間違いなく、幸福感である。

※本記事は、2019年3月刊行の書籍『良子という女』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。