第一部

一〇

このように、頻繁に往来する高瀬舟のために、備中松山藩主、水谷勝隆の子、勝宋の代になって、ここから一里(約四キロ)ほど上流域にある高梁川西岸の船穂から直接玉島や阿賀崎に通じる水路を造成したのである。これは、新田開発によって陸地ができたために、高梁川を下ると海に出て遠回りしないといけなくなった。

そこで、船穂から新田の用水路を大きくした水路を玉島や阿賀崎に直結したのである。これを「高瀬通し」といい、その構造からいうと、パナマ運河に似たところがあり、入り口と途中に何か所か水門を設けて、水位を調節しながら高瀬舟を通した。

パナマ運河ができる二百年以上も前に、こんな運河が我が国にあったとは驚きである。ここを、最盛期には百そう以上もの高瀬舟が往来していたのである。

また、この水路の水は付近一帯の水田のための灌漑用水としても使われた。言わば一石二鳥の役目を果たした。しかしながら、その後明治になり蒸気船の時代になって高瀬舟が姿を消すとともに埋め立てられ、いまは、その痕跡もほとんど残されていないようである。

それから、江戸期に玉島港に繁栄をもたらした主要交易品の綿花とその加工品については、その内、他地域でも良質の綿花が栽培されたり、全国的な普及などでやがて玉島港からの出荷量も漸減し次第に衰退していくことになるが、のちに、倉敷では大原家によって倉敷紡績所が設立され、大量に工場生産されるようになった。やがて、この紡績所は「クラボウ」の名で全国有数の紡績工場となったのは承知のとおりである。

それからこれは余談になるが、江戸期に活躍した大型船に「千石船」というのがある。千石分の米俵を載せて運ぶことのできる大きさの船という意味で千石船と呼ばれていたが、その中で、北海道から日本海経由で関門海峡を通過して瀬戸内海に入り、上方に産品を積んで往来していた大型船は、別名で「北前船」と呼ばれていた。

それに対して、上方と江戸の間を太平洋経由で往来していたものが、千石船と呼ばれていたようである。千石船では、紀州の商人、紀国屋文左衛門が紀州のみかんを、暴風雨をついて太平洋の荒波の中を江戸へと運び、それから、江戸が大火に見舞われた時、大量の材木を千石船で運んだりして大儲けし、やがて大豪商にのし上がっていった話は有名な逸話であり、ご存じの方もおられよう。

※本記事は、2019年8月刊行の書籍『高梁川』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。