第一部

一〇

このように、純之助の一族となるべく婿入りした度助だが、結局、なりきれなくて実家に帰ってしまった。

それでも、ひと時は純之助の親代わりみたいになって彼を育ててくれたわけだから、その意味では、婿入りした家に大きく貢献したと言えるだろう。そこで、純之助一家とかかわりを持った度助の実家について、その周辺のことも含め触れておきた い。

度助とは、実の名は忠左衛門と言い、系図をたどっていけば、純之助より四代前に初代佐治衛門の次男として生まれた興三右衛門(こうざえもん)の次男とある。この次男坊は、婿養子として他家に入ったわけでなく、自ら望んで玉島の阿賀崎に移住したとのことである。

そこで、さらにさかのぼってみてみよう。

江戸時代の初め、この辺り(現倉敷市玉島)は、備中松山藩(高梁藩)の飛び地の領地だったが、藩主の水谷勝隆(みずのやかつたか)が、高梁川流域からの産品を高瀬舟で河口まで運び、そこから北前船に積み替えるための藩港を整備することや新田の造成などの必要性から、この辺りの干拓事業、新田開発を進めたのである。

元々、この河口付近は、長い年月高梁川上流から流れてきた土砂が堆積して、広大な干潟を形成していた。しかも、沖合には玉島村の沖に乙島、それから阿賀崎村の沖に柏島があった。

そこで、まず玉島村に乙島まで埋め立てて玉島新田を造成し、やや遅れて、その西隣に広がる阿賀崎村にも沖合の柏島まで埋め立てて阿賀崎新田が造成され、それぞれ堤防が築かれた。

やがて、その両者を一つに結ぶ新町堤防が造られ、そこに廻船問屋や様々な商店など商業施設が整備され、堤防の上にこの地区独特の形をした地方都市ができたのである。

そこが、玉島港または阿賀崎港と呼ばれていたが、その内、呼び方は玉島港に統一されたようである。

当時の港では、瀬戸内海を行き来する千石船(北前船)のような大きな船が、沖合に停泊し、そこに小さな伝馬船で物資を積み替え運んでいたのである。

そうして港に陸揚げされた交易品は、再び高瀬舟に積み替えられ、高梁川流域の川港に運ばれていた。主な、交易品としては備中綿とその加工品が代表的なものであった。

特に、玉島と阿賀崎などに造成された新田は、地下の海水の影響で塩分が多い。だから、新田と言っても、米の収穫には適さず、塩害に強い綿の栽培がこの地区で盛んになった。

かくして、この地区の新田開発がほぼ完成した江戸時代の初め頃から半ばにかけて、この玉島地区一帯は綿花の生産とそれにともなう加工業がもっとも栄え、同時に港には多くの廻船問屋とその仲買人、さらに様々な商店が軒を連ね、玉島港から千石船で全国各地へと運ばれていっ た。

その見返りとして、千石船(北前船)では、北海道から、綿花の栽培にもっとも適した肥料であるニシン粕が送られてきた。

その他の交易品としては、こちらから、米、麦、酒、薪、たばこ、その他の農産品、雑貨など、また、北海道からは、昆布などの海産物があり、このような高瀬舟による高梁川流域からの産品と北海道からの交易で、玉島港はこの頃がもっとも繁栄した時期だったようである。

現在、 玉島の中心部には往時をしのばせる町並みが「町なみ保存地区」として残されている。

※本記事は、2019年8月刊行の書籍『高梁川』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。