第二章 伝統的テコンドーの三つの要素

(十七)コダン(漢字表記:高堂)(動作数39)

コダンとは、韓国の独立運動と教育に尽力した愛国家、曺晩植(チョ・マンシク)の雅号である。一九四五年まで続いた日本の占領時代、曺は韓国の独立運動における国家主義的活動家であった。

また、一九一九年の三・一独立運動にも参加し、日本による占領を公然と批判した。彼は非暴力の抵抗という方針に徹したことから「朝鮮のガンジー」と呼ばれており、その活動によって、生涯およそ四十回もの逮捕歴を持つ。

また、曺は独立運動に力を尽くしただけでなく、自国の経済的自給自足を奨励し、一九二二年に朝鮮物産奨励会を結成し、朝鮮物産の生産拡大を目指した。

しかし、第二次世界大戦後、日本の降伏からまもなく、曺は北部朝鮮をめぐる権力闘争に巻き込まれる。ソ連は当初、国民からの支持が高い曺に対して、北部朝鮮の統治を認めていた。

しかし、ソ連による北部朝鮮の信託統治案に反対を表明すると、曺はソ連の後ろ盾を失い、ソ連が支援する北部の共産主義者らにその地位から引きずり降ろされた。

一九四六年一月、曺に対して自宅監禁が命じられたが、彼は声高に共産主義を批判し続けた。

その後、北部朝鮮の刑務所に姿を消し、一九五〇年に処刑されたと言われている。この型の動作数39は、39度線に面した彼の出生地と彼が生涯において投獄された回数を表している。
 

(十八)チェヨン(漢字表記:崔瑩)(動作数45)

チェヨンとは、高麗王朝末期(十四世紀)における名高い武人政治家、崔瑩(チェ・ヨン、一三一六―一三八八年)の名にちなんでいる。崔は、比較的裕福な家族のもとに生まれたが、つつましく、非常に質素な生活を送っていた。

高価な洋服や食事にほとんど興味がなく、高級品を好む人間を嫌っていた。質素こそが美徳だと考え、家訓は「金を見ても石ころのように思え」であった。

崔は軍人としての道を選び、一三五〇年頃、朝鮮の海岸地方を奇襲していた倭寇の討伐で功績をあげた。趙新日が自らを王だと宣言し、群衆を連れ宮廷を包囲し内乱を起こした時、当時三十六歳であった崔は見事鎮圧し、国民的英雄となった。

また、高麗は十三世紀以降中国元朝の属国であったが、崔は元朝からの支援要請を受けると至る所で武勲を立てた。さらに、モンゴル帝国により占領されていた鴨緑江西域にある北側の一部領域を奪還した。

一三八八年、崔は従属する司令官の一人で、後に李氏朝鮮の初代王となった李成桂(イ・ソンゲ)将軍によって無実の罪に問われ、処刑された。李は威化島回軍として知られる事件が起こった時、高級官僚と大衆からの支持を利用してクーデターを引き起こした人物である。

崔は、李に対し宮殿で勇敢に戦ったが、李軍に圧倒されてしまう結果となった。敗北した崔は流刑され、後に処刑されてしまう。生前、崔は誰からも好かれる人物であり、彼の忠誠心、愛国主義、誠実、つつましさは全ての国民から尊敬されていた。
 

(十九)セジョン(漢字表記:世宗)(動作数24)

セジョンとは、一四四三年にハングルを編み出した大王、世宗(セジョン、一三九七―一四五〇年)の名にちなんでいる。これによって、全ての社会階級の人々が文字の読み書きを自由にできるようになった。

ハングル発明前、韓国では漢字が使用されていたが、漢字の習得は非常に難しく排他的なものであった。そのため、読み書きができるのは上流階級や貴族のみに限られており、上流階級からはハングルの使用に反対する声もあった。しかしハングルは次第に定着し、韓国市民の教育全体に普及していった。

世宗は、政権時代に多くの改革を行い、自国に繁栄をもたらした。彼は、農業技術の改良と勧奨のため、農書を編集することを命じた。また儒教の教えを広め、それを社会的規範とした。

さらに、世宗は自然科学の発展を強く支援し、天文学者らに朝鮮独自の暦を作るよう命じ、本初子午線を定めて月食や日食を正確に予測できるようにした。また、大砲技術をさらに発展させ、軍事強化にも力を注いだ。

こうした経緯から、世宗には大王の雅号が与えられている。歴史上、この称号が与えられているのは広開土大王と世宗の二人だけである。この型の演武線は王であることを示し、動作数24はハングルの文字数二十四を表している。
 

※本記事は、2020年5月刊行の書籍『人の道 伝統的テコンドーの解釈』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。