第2章 海外永住権の必要性

4. 海外移住の歴史

永住権の必要性は、海外への移住が始まってから生まれました。永住権は、移住者を受け入れる側の制度で、移住者の拡大にも規制にも使われます。

日本はかつて労働輸出国でもありました。日本人にとって永住権の歴史とは移民の歴史でもあります。その歩みをここで少し振り返ります。

日本人の海外渡航の始まりは、江戸幕府の長い鎖国の時代が終わった1868年の明治維新からでした。西洋列強に対抗するための富国強兵政策で、近代化が急激に進みました。

特に欧米の農耕技術を導入した農業は生産性が飛躍的に高まり、結果として多くの農民が余剰労働力として溢れる結果になりました。彼らが新たな就労場所を求め、国内だけでなく海外へも渡航したのが近代の日本人の海外移民の始まりです。

ハワイ王国の総領事として横浜に滞在していたアメリカ商人ユージン・ヴァン・リードは江戸幕府と交渉し、幕末に日本人のハワイ移住を実現しました。一方で明治政府はそれが江戸幕府による許可のため、これを無効としました。

しかし、ヴァン・リードはハワイのサトウキビプランテーションに約150人の日本人移民を強行しました。こういった経緯で海外へ渡航した日本人たちは、国の保護が期待できず渡航先で奴隷のような過酷な扱いを受けます。

明治政府は自国民が劣悪な待遇を受けたためハワイ王国に抗議、一部が帰国、残留希望者については待遇改善をとり付けました。明治政府はその後しばらく海外移住を禁止し、北海道開拓を推し進めました。

ハワイへの移民が公式に認められたのは1885年の日布移民条約が結ばれてからです。最初の移民の募集では、600人の枠に対し約2万8000人の応募、940人ほどがハワイへと渡りました。

これ以降、海外移住が本格化し、両国の契約に基づく「官約移民」は、1894年に民間に委託されるまでハワイだけで約3万人近くになりました。他にも数千人が木曜島やニューカレドニア、オーストラリア、フィジーなどに渡航しましたが、渡航者のほとんどは数年間の出稼ぎでした。

1890年代に入り、当時の松方内閣の外務大臣を辞した榎本武陽が国外市場の拡大を主張してメキシコでの植民地建設を提唱し、メキシコ南部に「榎本殖民地」と呼ばれる日本人農業定住地を目指しましたが失敗しています。しかしこれがきっかけとなり1899年にはペルーへの最初の契約労働者を目的とした渡航が始まり、続いて日本人のラテンアメリカへの渡航が盛んになっていきました。

北米への移民は前世紀初頭から本格化します。多くは日本人学生でした。貧しい家で育った者が多く、渡航後は住み込みなどの仕事をしながら学びました。

また、農園で働く出稼ぎ労働者も多く、北米における日本人人口が急激に増加しました。このため、1923年にはカナダが、1924年には米国も日本人移民を禁止しました。

北米への移民が制限されたため、移民の対象国は他の国々に移りました。中でも中心になったのがブラジルです。同時にフィリピンをはじめとする東南アジア地域への渡航も盛んになっていきました。

契約労働など出稼ぎとしての海外渡航が盛んに行われている中で、1895年に台湾は日本領土とされ、1910年には韓国併合、1914年には旧ドイツ領ミクロネシアが日本の植民地になりました。これらの植民地には何十万人もの日本人が移民しましたが、この人々は出稼ぎなどで移民した人々とは対照的に、支配階級の一員ということで厚遇されていました。

また、1932年に「満州国」が建国されてから、国家の主要政策として「移住」が掲げられ、敗戦するまで大量の日本人移民が渡航しました。第二次世界大戦で敗戦すると、その後数年間にわたって600万人以上の軍人や移民が日本に帰還しました。しかし、戦後の日本にはその人々を支える経済力や食糧基盤が乏しく、苦しい状況が続きます。

1951年にサンフランシスコ講和条約が締結され、日本の独立が認められると、政府はラテンアメリカ諸国に、農業移民を送るようになりました。1952年にはブラジルに戦後初めて移民団が渡航し、次にパラグアイ、アルゼンチン、ドミニカ共和国、ボリビアへと多くの日本人が移住していきました。

一方、この中でドミニカ共和国には1300人ほど移住したのですが、農耕地としてまったく適していない土地だったため、5年後には8割が帰国し、移住を推進した国を相手に訴訟も起こされました。そして、1960年代に高度経済成長期が始まります。これにより、貧しさから就労の場を求める国民の組織的な海外移住は終焉しました。

1980年代に日本のバブル経済が始まり、多数の日系ブラジル人などが日本に出稼ぎに来るようになりました。そして、1990年頃になると日本人の海外移住もブームになりました。バブル期の日本円の強さを背景に、オーストラリアのゴールドコーストやスペインのコスタ・デル・ソルなどといった高級リゾート地が注目され、豊かな生活を求めて日本人が移住しました。

この時期、政府はスペインなどに退職者など日本人のための保養地造成、「シルバーコロンビア計画」を推進しました。この実態は海外に大型施設を作り、日本の建設会社が受注するという計画でもありバブルの崩壊とともに頓挫しました。

その後、日本ではバブル崩壊による銀行の不良債権問題が引き金になり、金融不安から長期の不況に落ち込みます。リストラが次々に起こり、高年齢の人は再就職も難しいという状況に陥ったため、年金が受給できる歳になるまで暮らしを支えることが目下の課題となりました。こういった経緯で、バブル時代の豪華な生活を求めるということから、物価の安さを求めて海外へ移住するという流れが生まれました。

2011年に東日本大震災が起こり、原子力発電所の破損で拡散した放射性物質の汚染問題で、今度は被災地や周辺地からの避難という動きも生まれました。その中で再び海外移住が注目を集め出しました。

またIT産業などを中心に、海外にも仕事の拠点を置いて多国間のビジネスを展開する企業や個人も増えています。これらを背景に、さらに永住権の必要性への関心が高まってきています。

※本記事は、2019年3月刊行の書籍『『日本×フィリピンで実現する 究極のデュアルライフ』』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。