第四章 目覚めよ​日本​

出来レースの「為にする」事後法

事後法とは、文字通り後から作られた決め事によって、それ以前の出来事を判断しようとする、「為にする」方法論です。分かりやすい実例を一つ挙げるとすれば、「拍手の仕方が悪い者は銃殺刑に処す」という法の下に、これを未来ではなく過去に遡って実施するのが事後法です。

全員が同意の上で、「拍手の仕方が悪い者は、今後は銃殺刑に処す」というのであれば、それはそれで仕方がありません。しかし過去に遡って執行されたのではたまったものではありません。

立法者と執行者が同一であれば最悪です。殺すために殺したということになるからです。事後法とはそもそもがインチキの代名詞であり、後知恵によるこじつけがその正体です。事後法とは歴史に対する挑戦であり、「後出しジャンケン」なのです。

しかし将軍様が君臨する北朝鮮では、いまだにこの事後法が健在です。立法者と執行者が同一犯だからです。

事後法はしかし対岸の火事ではありません。日本中に蔓延し日本国民の殆どに刷り込まれていた自虐史観という思想が、それなのです。

日本人クリスチャンの仲間内に自虐史観の信者が多いのも、別段不思議なことではありません。悔い改めという罪認識の「自己否定」と、自虐史観が要求する「自己卑下」は相似形であり相性がいいのかもしれません。

ましてや日本人の挨拶は「すいません」とか「御免下さい」です。自らに非があれば、許しを請うのにやぶさかではないのも日本人の国民性です。全てが逆手にとられたとしか言いようがありません。

自虐史観の出自の一つは間違いなく、GHQによる極東国際軍事裁判という舞台装置によるマインド・コントロールです。唯一それに罹らないのは、狂人だけという話です。

麻原彰晃に騙された人々を見ても分かるように、洗脳は知的レベルの高低とは無関係です。条件さえ揃えば誰でも引っ掛かってしまうのがマインド・コントロールの恐ろしさです。

殊に集団的マインド・コントロールの効きやすい場が、政治と宗教です。そして日本国民の大多数が見事に引っ掛かってしまったという次第です。大和言葉では、どちらも「マツリゴト」だったからでしょうか。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。