明日、明日、明日

ユダの話​

そしてラスコーリニコフは老婆を殺し、金を奪った。自分が正しいと思って彼女を殺したが、彼は罪悪感を覚えていた。

他人の正義を傷つける正義というものは、必ず矛盾するものである。彼の場合は、シンプルに、人を殺してはいけないということである。人を殺してはいけないという正義が、俗でない人はルールを破って良いと考える彼の論理と矛盾したのである。

すると、何か正しいことをしようと実行すれば、必ず自分が間違っていると思うことも、してしまうのだ。罪とは、正義が正義を傷つけることである。つまり、誰でも罪を犯した者は、罪悪感を覚えるのである。

老婆もその例外ではない。ラスコーリニコフは、ルールを破ってルールを変える方法の最大のデメリットを、見逃していた。それは罪になることである。彼はこのことに、後で気づくことになる。

ラスコーリニコフは、また、金に困るようになった。そして、ついにある司教館から銀器を盗んだのである。

しかし、二度目の犯罪は、彼にとてつもない罪悪感を与えた。彼は罪悪感に耐えきれず、司教館に戻り、銀の食器を返して司教に言った。

「食器は返します。僕を警察に引き渡してください」

すると司教は「この食器はあなたにあげます。そして、罪に対する罰というものは他人に与えられるものではなく、神が与えるものです。私は何もしませんから、何が正しいのか自分でよく考えてみてください」と言った。

それからラスコーリニコフは何が正しいのかを考え始めた。しかし、わからなかった。そこで、様々な奇跡を起こして、どんな人でも救うイエス・キリストという神の子が現れたといううわさを聞いて、答えを見つけるために、彼に会う事にしたのだ。

神が罰を与える、ということは、つまり、自分で自分に罰を与えるということである。自分が自分に与える罰というのは、罪悪感のことである。

他人からの罰は、罪悪感を少しだけなくして、その人を楽にするためにあるものである。前に、誰でも、罪を犯した者は罪悪感を覚える、と書いた。つまり、罪を犯した者は、誰でも罰が与えられるということである。

罪悪感を覚えない人などいないが、もし、いたとすると、その人は、神から罰さえ与えられない、あわれな人間である。自分があわれであることにも気づけない、まことに救いようのない絶望的な人間である。ラスコーリニコフは、このことにも気づくことになる。

彼はイエス・キリストを追ったが、なかなか会えなかった。そしてイエスが歩いた後の小道を通り、そこにいる人たちからイエスの話を聞いた。

しかし、目を開いた盲目の女性や、不治の病が治ったという男には、一人も会えなかった。イエスが水の上を歩いたり、石をパンに変えたりしたところを見た人も、一人もいない。

ラスコーリニコフは、次第に、イエスは、ペテン師なのではないかとさえ思ってしまった。そしてついに、イエスに追いついたと思ったら、彼は十字架にかかり、死んでいたのである。

しかし、ラスコーリニコフは墓の前でかすかな希望を持っていた。イエスが復活することを聞いていたからである。聖母マリアはイエスが普通の人であることを知っていたが、藁をもつかむ思いで、イエスが復活することを信じていた。

そして、しばらくすると、ある男がイエスの墓参りに来た。ラスコーリニコフがその男に誰だか聞くと、その男は「私はユダと言います。イエス・キリストの十二人の弟子のひとりです」と言った。

ラスコーリニコフは「本当ですか?ぜひイエス・キリストの話を聞かせてください」と言った。ユダはイエスの生涯の話をした。イエスの生い立ち、山上でのイエスの説教、ユダに裏切られたこと。すべてを話し終わった後ラスコーリニコフは聞いた。

「世間の話だと、ユダは自殺したと言われていますが、なぜ、あなたは生きているのですか?」

ユダは言った。

「聡明そうに見えるあなたですが、真実がわかりませんか? すべては、たとえですよ。私が罪悪感という罰を受けたことを自殺にたとえ、イエスが盲目の人をいやしたというのはその人が心の目を開いたということで、病人を治したというのは、その人の心を救ったということなのですよ」

そして、ラスコーリニコフはうつむいたまま不気味な笑みを浮かべ、すべてを悟ったかのごとく、こう呟いた。

「ではイエス・キリストは、復活したのですね」

ユダは言った。

「はい、そうですよ」

そして、ユダは血のりの付いた服を取り出し、こう言った。

「これはイエス様の御召しになっていた服です。イエス様の服には、不思議な力があります。記念に、受け取ってください」

※本記事は、2020年2月刊行の書籍『令和晩年』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。