第3章 AI INFLUENCE

第6項 責任

2 顔の見えない人たち

彼らは、彼らを官僚足らしめる関門となる国家試験の成績、及び昇進を助けたその後の組織内での実績から見れば、一種の天才と言っていいだろう。若き天才は組織に入り、組織を、法を、国家を深く理解し、大いに驚愕(きょうがく)したに違いない。能力が有るほどに、己一個の無力さを骨身に思い知ったに違いない。

そして、これ程のものが既に出来上がっている以上は、自らを躍起になって発揮するよりは、むしろ自らは歯車となり、既に出来上がったこのシステムを誠実に忠実に実行する事が公益に資するもっとも正しいやり方であり自らの正しい在り方だ、と考えただろう(ここに国家未熟の明治維新ではなく、平成維新の難しさがあると私は思う)。

もとい、法という正しさを世に立てる立法があり、法が権力を背景にする以上、法を恣意的(しいてき)に用いる事がないように立法と行政を分けたのだ。正しさが先に立てば、あとは当て嵌めが時宜(じぎ)にぶれずに正確に行われることが望ましい。

官僚はシステムの完成度に圧倒され、システムの忠実な執行者となる。そして、システムから外れない限りは責めを負わないという意味では、システムに守られる。かつて国家システムとは人智の作り出した最高級のシステムだった。だからこそ、国家が富を、情報を独占し、それから分配の問題が生じた訳だ。

しかし、今や人工知能はあらゆる領域に於いて、それに勝るとも劣らぬシステムを矢継(やつ)ぎ早(ばや)に構築する。そのシステムは安価に広く一般に共有される。ともすれば、選ばれた天才たる官僚のみならず、我々もまた、そのシステムに圧倒され、かつ同時に恩恵も受け、官僚の様になっていくだろう。

自動運転技術の普及で事故は減るだろう。かの名人は将棋で負けてしまった。お酒も度を越さず健康的に気持ちよく飲めるようになった。わざわざ、我々が自ら判断する必要性が何処にあろう。なまじっかな価値判断を晒して徒(いたずら)に責めを招くよりは、判断をシステムに委ねた方がよほどいいではないか。

自らの顔で価値判断を示す政治家は消え、価値判断に於いて責任を負わず顔を持たない官僚によって国家は運営されていく。同様に、自らの自由意思を放棄し価値判断を晒さず、自らを分子化し顔を持たなくなった我々が、これからの社会を担っていく。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。