明日、明日、明日

ユダの話​

イエス・キリストの墓を見ながら、ラスコーリニコフは茫然と立っていた。彼の前では、イエスの母であるマリアが泣いている。ラスコーリニコフはある罪を犯していた。

彼は救われたかったので、イエスと会うためずっと主を追いかけていた。しかし何度もすれ違ってしまい、とうとう会えなかった。ラスコーリニコフは自分の犯した罪のことを思い出した。

彼は当時、金がなかった。ある老婆から金を借りていて、借金に苦しんでいたのだ。そしてある時、こう思ったのだ。

……すべての人間は俗な人と俗ではない人に分けられる。俗な人は世間のルールや常識を守らなくてはならない。しかし俗でない人はルールを破っても良いのだ。

なぜならルールは常に変わらなくてはならないからである。どの時代にも合った完璧なルールなど存在しない。もし今、決めた最善のルールを永遠に変えなかったとしたら大変なことになる。いつかそのルールのデメリットが目立ってくるし、人類も進歩しなくなるだろう。

そもそも今誰もが納得しているルールでさえ、昔の俗でない人がその時のルールを破ることでできたルールなのだ。だから、その時代の俗でない人がルールを破り、その時代に合ったルールを作っていけば良いのだ。そして俗な人がルールを守らなくてはならないのは当然である。

みんながルールを破ってしまったらルールの意味がなくなってしまう。すべての人がルールに疑問を抱く権利を持つべきだなどというきれいごとは聞きたくない。俗な人は今のルールに疑問を持つほど頭は良くないし、新しいルールを作る才能もない。

ただ、ルールを守りながら、ルールの疑問を訴えるという方法がある。しかしその方法でルールを変えるのはデメリットが多すぎる。

一方ルールを破ってルールを変えるという方法のたった一つのデメリットである社会に迷惑がかかるということは大丈夫である。俗でない人は一万人に一人もいない。とても少数である。その人たちが何かをしてルールが改正される可能性が少しでもあるなら、小さな犯罪など何でもない。

ちなみに俗な人が、自分は俗でない人だと勘違いすることは絶対にない。俗な人は、まだ有名ではない俗でない人を軽蔑するからだ。それに、俗でない人による犯罪によって犠牲になる人が出てくることも問題ない。

ルールが変わった後では、その犠牲になった人たちは犯罪者であるから。そして、ルールを破ってルールを変える方法のメリットだが、それは言うまでもなくルールを守りながら変えるより簡単に変わることと、ルールが大きく変わることである。それなら、俗でない人であろう自分はルールを破ってしまって良いと思う。

つまり、老婆を殺し、彼女が持っている金を奪うのだ。この論理は多くの人が、聞いても納得しないだろう。それは自分がこの論理を少し乱暴に言っているからだ。そう、これは真理であり、真理を乱暴に言っているだけなのだ。

説得力と真理は無関係である。どんな間違ったことでも説得力があれば俗な人は信じるし、どんな正しいことでも、説得力がなければ俗な人は信じない。

つまり、この論理をやさしく言えば、俗な人には少しも乱暴な論理に聞こえないということだ。それに老婆を殺す理由はもう一つある。

前に、ルールが変われば俗でない人による犯罪によって犠牲になった人は犯罪者である、と言った。つまり僕に金を貸して、高い利子をつけて将来ある僕のことを苦しませている老婆には罪がある。だから自分が神のかわりに彼女に罰を与えるのだ……。

※本記事は、2020年2月刊行の書籍『令和晩年』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。