第四章 目覚めよ​日本​

観とは何かという問題

ある時から、私は日本のキリスト教(会)に瀰漫する臭いのようなものを意識するようになりました。

それが自虐史観というイデオロギーです。日本の多くのキリスト教会の中では、既に公認の歴史観です。ところで「観」とは物事を理解する時の最初の枠組みであり、前提のことです。観とは、数学の公理と同じようなものです。

知られている定理は全て公理からの演繹です。定理の正しは公理によって保証されるからです。しかし公理の正しさを証明できるものは、どこにもありません。無理にでも探そうとすれば、万人が納得する常識ということになりそうです。

石板に刻まれた神の戒律ではなく、人の心に記憶された「ならぬことはならぬものです」という常識です。

歴史観もまた、然りです。歴史というものに一定の解釈を与えるのが歴史観であり、歴史を考える時の前提です。前提とは立証前の仮説ですから、歴史観と歴史は別に扱わねばなりません。

前提でしかない歴史観を結論として歴史を概観すれば、その歴史観に適う史実だけを見てしまうからです。作為か否かは別としても、これが典型的マインド・コントロールの手法ではなかったでしょうか。歴史は一期一会です。歴史は唯一であり取り替えは利きません。

過去は変更不能でありそういう意味では、歴史にifはありません。しかし歴史観とは既に解釈された歴史のことであり、それは国の数だけ、解釈した人間の数だけあるはずです。

歴史観は何処にでもifが立てられます。戦争ともなれば双方に真逆のifが出現するのは当然であり、世の常識です。正しい歴史観とか客観的歴史認識だと強弁されたところで、言葉の綾にすぎません。

認識するのはそれぞれの主観だからです。どのような歴史観であれ、全ては後知恵の産物であり「事後法」でしかありません。したがって特定の歴史観に拘泥し、訳知り顔での断罪はなりません。

それが事後法の禁則という「常識」です。一旦これに手を染めればどんな屁理屈でも思い付くのが、人間という厄介な生き物です。わが身を安全圏に置き歴史を歴史談義に摩り替え、「講釈師見てきたような噓をつき」であってはなりますまい。

そういうわけですから、人間の道徳律やその時々の善悪を歴史の俎上にのぼせ、もっともらしく教え込もうとする共同謀議こそが人類の平和と文明に対する挑戦であり、人道に対する罪ということができるのではないでしょうか。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。