第一章

4

今日子が河合に惚れているのはすぐにわかった。ほかの連中には見せないような笑顔を何度も見せていたからだ。河合は女の扱い方にも慣れており、たびたび博昭を感心させた。と同時に博昭は嫌悪した。

その嫌悪感は激しく、博昭自身、湧き上がる暴力衝動に困惑した。ケータイが震えた。バイブモードにしていたのだ。画面を見た。風間だった。電話に出ると、風間はすぐに本題に入った。

「どや? 変わりはないか?」
「あの女、何か変だ」と博昭は言った。
「あっ?」
「きょう、突然路上でうずくまりやがった」 

風間が息を吸ったのがわかった。

「なにがあった?」
「ゲロを吐きそうに見えたけどな」
「吐きそうだと?」
「通りすがりのババアに介抱されてたぜ」

風間が黙った。何かを考えている。

「妊娠かもな?」

博昭は素っ気なく言った。

「そう思うんか?」
「相手はあのクソ野郎だからな」
「クソ野郎?」
「あいつは女をオモチャだと思ってやがる」
「なんでそう思う?」
「他にも女がいる」
「なに?」
「またもや劇団の女だ。君島良美。看板女優。しかしまあ、ハーレムだな」

博昭は鼻で笑った。風間は電話の向こうで沈黙している。少しの静寂のあと、風間が言った。

「工藤ちゃん。そろそろ接触してくれんか? やり方は任せる。金でも何でも必要なもんは言うてくれ。すぐに手配する」

博昭は首を振った。やれやれ、いったいどうしてこの俺があんな不倫女と接触しなければならないんだ。

「あの女、あんたの何なんだ?」
「まだ言えん」
「まさかあんたの愛人とか言うんじゃないだろうな? 若いねえちゃんの取り合いか? カンベンしてくれよ、おっさん」

博昭はあざけるように笑った。

「調子にのんなや」

風間の声が低くなった。

「いらん詮索はすんな。それとー」

電波が悪いのか、風間の声が聞き取りにくくなった。

「あの娘には俺のことは内緒や。わかっとるやろな」

博昭は鏡を見た。自分自身を睨みつける。敗北者の顔。感情を押し殺しながら博昭は言った。

「ガキができてたらどうする? 脅すか? それともボコるか? 喜んでやるぜ」
「なにもせんでええ」
「なんだ、そりゃ?」
「やたらと喰いつくな」

博昭は黙った。

思い出したくもない母の記憶がそばに寄ってきた。目を閉じて払いのける。

「キモいんだよ」

吐き捨てた。

「不倫がか?」と風間が尋ねた。博昭は答えない。
「しょうがないやんけ。好きになってしもうたんやから」と風間は言った。
「不倫は文化か?」博昭は鏡を見ながら笑った。

「あれ、タレント本人は言うてへんらしいで。実際は、『文化や芸術といったものが不倫から生まれることもある』って言うたらしいけど、マスコミが、『不倫は文化』と言葉を変えて勝手に報道したらしい。つまり、マスコミが作ったっちゅうこっちゃ」
「どうでもいい」博昭は言った。
「工藤ちゃんはどう思うねん?」風間が尋ねてきた。
「何が?」
「不倫」
「はあ?」
「だから不倫や。どう思うねん」
「クソだ」
「ほお、何でや?」

記憶が蘇る。博昭にとって思い出したくもない過去。母の記憶……。鏡に向かって化粧をする母。いそいそと身支度をする母。下心丸出しで母を見る男たちの下品な顔。母に覆い被さる男たちの醜い体。いつ終わるともわからない母の喘ぎ声……。

博昭は息を吐き出す。遠くで雷鳴が聞こえた。顔の向きを変えて窓の外を見た。何も見えない。そこには寂れたビルがあるだけだ。

しかしすぐにもう一度同じ音が聞こえた。静かな部屋の中にそれは虚ろに響いた。

「おい、何か言わんかい」

風間が言った。窓の外が光った。

博昭は黙ってケータイの通話を切った。窓の向こうで季節外れの雷鳴が轟いた。

※本記事は、2017年12月刊行の書籍『永遠と刹那の交差点に、君はいた。』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。