第四章 目覚めよ​日本​

「自虐史観」を聖書から糺す

クリスチャンが知っておくべきは、自虐史観というものの正体です。即ち、聖書は自虐史観という思想に対し、どのような判断を下していたのかということです。

曰く、「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言います。

こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。あなたがたも先祖の罪の目盛りの不足分を満たしなさい。おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう」(マタイ23:29~33)。

以上はパウロの発言ではなく、キリストご自身の言葉です。英訳聖書では、殊に赤く印字されている箇所です。

マタイ福音書23章はその全体が律法学者やパリサイ人への糾弾です。それは神の「福音」をユダヤ教という人間の「宗教」に改竄し、自己目的のために他の人々を支配しようとしたからです。

彼らは世にへつらい、おもねるだけの宗教家でしかなく、そうすることにより大衆扇動を目論むデマゴーグでしかなかったのです。そのための理論武装を謀る似非学者であり、キリストの僕や福音の語り部ではなかったのです。

その「まむしのすえども」の信奉する思想こそ、パウロが糾弾する「だましごとの哲学」(コロサイ2:8)です。自虐史観とは己が保身の「為にする」歴史観であり、「あの時、ああしたら」とか「あの時、ああしなければ」という「タラレバ史観」でしかないからです。

既に結果が判明している史事の中に失敗事例を探し、「俺ならあんなへまは、絶対しない」と大見得を切ったところでナンセンスです。自虐史観とは詭弁と自己保身のためのトリックであり、神が忌み嫌う謙遜高慢の極みなのです。

この論法によって歴史を解釈すれば、自分こそが正しいと思うのは当然です。判断する物差しには、善と悪の目盛りしかないからです。自虐史観とは即ち、偽善者御用達の隠れ蓑であり、日本宣教に纏わりつく「教えの風」(エペソ4:14)の別名でしかなかったということです。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。