第四章 目覚めよ​日本​

自虐史観を「世の人」から観れば

世的な問題は「世の人」に聞いてみなさいというのが、イエスの教えです。ですから私も自虐史観を「世的な問題」と、「聖書的な問題」とに分けて考えることにしました。それが前述の『日本人に生まれて、まあよかった』です。

タイトルが面白いので読んでみました。もちろん、信仰書ではありません。

クリスチャンになる前の私はといえば、「日本人は、どうでもよかった」のです。日本のことは、殆ど知りませんでした。クリスチャンになったばかりの頃は、「日本人にだけは、生まれたくなかった」になりました。悪口だけを聞かされ、片方からしか日本を見ないように仕向けられたからです。

やがて「日本のことなど、知りたくもなくなった」というわけです。これが異端の常套手段であり、印象操作です。片方からの情報しか与えないというところが、一番のキー・ポイントです。

そこにはなるほどという情報が、必ず入っています。しかしそのなるほどをたどっていくと、しまいには真逆のなるほどという罠が待っていたのです。

それがマインド・コントロールの手口です。別名を洗脳とも称します。自分で考えているつもりが、そのようにしか考えることができなくされていたことに気づかないのです。

気づかれてしまえば、洗脳など不可能です。キリスト教の異端を調べているうちに、正統を自負する側こそが「本物の異端」ではないのかと、逆に考えざるを得なくなったという次第です。

今にして思えば私の教会遍歴とは、洗脳された自分をもう一度聖書によって再点検し、出直すための歩みだったような気がしてなりません。今では目でたく、目からうろこのような物も落ちて、「日本人に生まれて、本当によかった」と心から思えるようになりました。

今となっては、神様への感謝しかありません。

しかし、今の日本は壊れ始めているような気がしてなりません。悲しいことに、「誰でもいいから殺してみたくなった」という例の台詞は、珍しい言葉ではなくなりました。

これを防ぐ手立ては「日本と日本人」を愛する心を育むことしかなさそうです。それができそうなのは、十字架の福音を知っているはずの、クリスチャンたちではないでしょうか。

聖書要約の一つが、「また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』」(ルカ1:25 ~28)だからです。今まで福音伝道のつもりでやってきたのが、「日本人にだけは、生まれたくなかった」と思わせるような思想教育では、言語道断です。何のためのキリスト教でしょうか。

私が「世の人」から教えられた一番の収穫は、自虐史観と皇国史観は実は同じものであるということの発見です。

自虐史観を「善い」と信じている人は、皇国史観は「悪い」と信じている人の対偶でしかないのです。そんな理由で信じていたのなら、歴史を「善悪」という道徳の尺度で見ていたことの印です(創世記2:16~17)。

これは「右」と「左」との対立関係ではなく、あのメビウスの輪のような表裏一体の構造です。どちら側を信じるにせよ、初めに「歴史観」ありきでは本末転倒です。

歴史の前に歴史観という「前提」を立ててしまえば、その着色された歴史観の通りに解釈する他はないからです。日本の福音宣教を妨げているものという命題に関し、多くのクリスチャンは自分たちの努力不足とか、祈りが足りないとか、悪霊どもの妨害とか、そればかりを一心に考えてきたのです。

聖書には不思議な言葉もあります。「わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者」(イザヤ45:7)という言葉です。

もしも聖書に適わない宣教論であるとすれば、神ご自身がこれを妨げておられるのは当然であるというのが私の聖書理解です。即ち、妨げさせていたのは宣教側の間違った前提と、見当違いの努力です。

「光とやみ、平和とわざわい」というような言葉を見聞きすると、人間はどうしても二元論的な見方しかできなくなります。歴史に対しても同様です。人間の目にはそれが「右」と「左」との対立に見えてしまうのかもしれません。

多くの日本人クリスチャンが自虐史観の目眩ましにあっているということは、裏を返せば彼らが大嫌いな皇国史観からいまだ解放されていない逆証でもあると、『日本人に生まれて、まあよかった』の著者である「世の人」は分かっていたのです。神の知恵を借りずとも、日本人の洞察はそれくらいのことは分かるのです。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。