第二章 伝統的テコンドーの三つの要素

(九)チュンム(漢字表記:忠武)(動作数30)​

チュンムとは、李氏朝鮮時代の偉大なる海軍提督、李舜臣(リ・スンシン)の諡号である。李の有名な功績の一つは、亀甲船を復活・改善させたことである。

亀甲船とは、一五九二年、現代の潜水艦の先駆けとして作られたものだ。この船は十分に装甲されており、天井は厚板と刀錐(すいとう)(先の尖った小さな刀)で覆われている。

刀錐の目的は、敵兵が船に乗り込んで来るのを防ぐことにある。というのも、大きさで勝る日本船の側面は、亀甲船のような船よりも高さがあるため、敵兵が飛び降りてくる危険性があるからだ。

しかし船の屋根を刀錐で覆うことで、敵兵には突き刺されるリスクが伴い、亀甲船に飛び降りることができない。日本海軍の主な戦術は、敵船に乗り込み、接近戦で相手を倒すことであったため、亀甲船ではそれが不可能であった。

さらに李は、対戦において自国が有利になるよう、大砲の技術発展にも積極的に関わった。また李提督は、一五九二年から一五九八年の間、日本軍の侵入を何度も撃退し、一度も戦に負けることはなかった。

歴史学者によれば、李が少なくとも二十三度の戦いに参戦していたことが分かっている。李にとっての最大の勝利は、おそらく鳴梁(めいりょう)海戦であろう。

この時、日本船の数が三百三十三であったのに対し、李の戦艦数はたった十三であった。李は、まず鳴梁海峡に日本艦隊をおびき出した。そこは海流が速く、一度に一隻しか安全に入港することができなかった。

日本軍は海峡に関する知識に乏しく、その日の濃霧で視界を遮られた。さらに、李は日本船の動きを妨げるため、海峡一面を鉄鎖でつないでいた。

これによって、日本艦隊は韓国船に対して自分たちの強みを生かすことができず、結果的に多くの日本船が破壊され、日本艦隊は引き返すことになった。この勝利は、日本軍との戦の形勢を大きく変え、今にも漢城に侵入しようとしていた日本陸軍は、支援物資と援軍を失い撤退せざるを得なくなった。

李はライバルや日本人スパイによる陰謀と罠によって地位を剥奪され、宣祖(ソンジョ)国王の命令によって何度も拷問を受けた。そして一五九八年十二月十六日、露梁(ろりょう)海戦の戦場で銃弾を受けて亡くなった。

李は度胸や忍耐力、強さを持ち、また献身的、知的で忠節な人物として今日、韓国の英雄の一人として国民から尊敬されている。この型は、李に敬意を表したものである。左手の攻撃で終わる動作は、誰よりも国王に対する忠誠心を持っていたにも関わらず、その能力と偉業が十分に認められることなく亡くなってしまった李の悲劇を象徴している。

※本記事は、2020年5月刊行の書籍『人の道 伝統的テコンドーの解釈』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。