第四章 目覚めよ​日本​

右とか左という問題

私が初めて通ったキリスト教会が属する教団には、靖國問題委員会という組織がありました。靖國反対を掲げて政教分離を唱え、天皇(制)にも反対であるということがほどなくして分かりました。

その頃昭和天皇の崩御もあり、新天皇即位に伴い大嘗祭が執り行われようとしていた矢先です。聖書から見た大嘗祭とは何かという勉強会が、教会内で開かれました。聖書箇所を自在に引用して牧師が説明するには、反キリスト的悪霊的な宗教儀式であるとのことです。

なるほどと思える反面、本当にそんなものかとも思いました。それ以降、この手の問題に出くわすたびに思ったのは、「何の因果で俺は日本人に生まれたのか」という嫌悪感です。聖書において神がそう言うのであれば、私にはどうにもなりません。

私も好きで日本人に生まれたわけではありません。しかし神が「日本と日本人」を快く思っていないことくらいは、自分なりに想像できました。四年近く通いました。背教したわけではありませんが、脱会せざるを得なくなりました。

二番目に在籍したキリスト教会では政治的発言をあからさまに聞く機会はなかったものの、牧師の心中は前の教会と同一なのはすぐに分かりました。キリスト教会とはその実、反日教徒の養成所でありそのための神学道場でもあることが次第に見えてきました。

三番目の教会にいた時の出来事が、国旗国歌法案という問題の出現です。教団の反日テーゼを忖度しての故か、その法制化に断固反対すべしとの声が持ち上がったのです。その時、私の中に決定的な疑念が生じたのです。

そもそも「日本」とはキリスト教の天敵だったのかという疑念です。何故にキリスト教会というところはどこもかしこも、「君が代歌うな! 日の丸掲げるな!」なのかという疑念です。

聖書の神様が日本人に対して「それ」を命じておられるということは、本当に本当なのかという疑念です。このような問題に関し頰被りをし続けることは、最早私にはできませんでした。

私は真の神を礼拝するために「キリスト教会」に通い、『聖書』という書物をもっと深く知りたいとの思いだけで集っていたのです。政治的発言や活動はそれぞれの自由かもしれません。しかし聖書をさて置きそこまで云々したいのであれば、お気に入りの政党にでも所属し、別の場所でやっていただきたいものです。

それが、自分たちの主張する政教分離の筋というものではないでしょうか。日本に関する信仰書を改めて点検してみれば、特定のイデオロギーによって糊塗され、既に神学武装まで施されていたことも見つけました。そのデマゴギーを鵜呑みにすれば、日本人への福音伝道が反日的な政治運動と化すのは当然ではないでしょうか。

先達の預言者である内村鑑三の残した言葉が、「私はふたつのJを愛する。ひとつはイエス(Jesus)、もうひとつは日本(Japan)である。私はイエスのため耶蘇教徒として日本人には憎まれ、日本のため外国人の宣教師にも嫌われている。しかし構わない。私は全てを失ってもイエスと日本を失うことは出来ない」という告白です。

実は私にも似たような体験があります。キリスト教会の中で日本を語ると、「あなたは右翼か?」と言われたことです。教会の外でキリストを語ると、「あなたは左翼ですか?」と聞かれたことです。

左からは右だと言われ、右からは左だと言われるなら、私こそ真ん中です。ですからそれ以降、「私はナカヨクです」と答えるようにしました。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。