12月4日(金)

退院日決定

私はいつも6時前後に家を出る。5時50分に出る場合と6時5分に出る場合と、主に2通りである。それぞれに必ず座って行ける電車が来る。

会社へは7時から7時15分の間に着く。今朝ちょっと出遅れて、間に合わぬことはないのだが、時刻の確認のため携帯電話をカバンから出した(私は時計を持っていない)。そこで着信があったのを知った。

良子から数分前である。ぞっとした。すぐに電話を入れたが通じない。電源を切ったものと思われた。病室からは発信にのみ使うように言っておいた。病人が余計な電話の対応をすべきでないと思った。

私は引き返し、病院へ行こうとした。引き返しつつ、家のあい子に電話した。

「電話、あったかい?」
「あったよ」
「何か起こったのか!」
「日曜日に退院だって」
「びっくりしたなあ、もう。また大変なことが起こったと思ったよ」
「逆だよ」
「大丈夫か? もっといた方がいいんじゃないか?」

私は再度向きを変えて、駅へ向かった。考えてみれば、大事が発生したのなら本人が電話できるはずなかった。私はひとまずほっとしたが、大丈夫か? という不安は増した。とても喜ぶ気にならなかった。

夜、良子を訪ねた。点滴針はすべて外されていた。昨日より感じは良かった。

夕食を終えたところであった。五分粥はほとんど手を付けていなかった。しかしおかずはほぼ全部食べていた。退院をさほど喜ぶ風でなかった。と言って、悲観的でもなかった。淡々としていた。

「今度は、慎重に慎重にいこうね」と私は言った。良子はうなずいた。

「あの饅頭がいけなかったんだ」良子は笑った。

帰り、スーパーに寄った。ワタリガニを2パック買った。スープを作っておいてやろうと思った。

12月5日(土)

前日

今日は土曜日なので14時半に良子を訪ねた。空気は冷たかったが、好天であった。

あい子が起きてくるのを待ったが「爆睡」しているのであろう。会社(複数)の決算作業と重なって、随分苦労を掛けた。起こすのは可哀想なので一人で家を出た。

病室に入ると看護師さんがいた。二人は談笑していた。

「大丈夫か? もう1週間ほど置いてもらった方がいいんじゃないのか?」
「大丈夫よ」

看護師は、かははと笑った。

「すぐまた引き返すのはイヤだよ」
「今日も3回、行ったわ」
「3回? それ下痢じゃないのか? 大丈夫か?」
「大丈夫ですよ」と看護師が言った。
「これからシャワーする。30分くらいかかるから外で待っていて。デイルームにいてくれる?」

私は指示に従って部屋を出た。窓外に本牧埠頭につながる首都高速が広がっている。私が常に乗り降りする場所である。

空は澄み切って青い。私はカバンから本を取り出して読み始めた。ボブ・ビュフォードという人の『ドラッカーと私』というものである。

アメリカにおけるキリスト教会の活性化に、経営学者ドラッカーの指導が重要な役割を果たした、そのレポートである。私が現在日本のカトリック司教団にほぼ絶望しているのは、ここに書かれている要素が日本の司教様方に欠落しているからである。

ここに書かれた通りをやって日本で成功するとは思わない。しかしそれは応用の問題である。本質は、一番大切なものは何か、その実現のために何が有効で何が有害か、自分は何をすべきか、その把握と実行である。

読みながら眠ってしまったらしい。良子の手が私の肩に置かれ、私は気付いた。良子が私の横にいた。

「しばらくここにいようね」

そう良子は言った。私は安らぎを感じた。このような状態がずっと続いてくれたなら。……

「3月にはお伊勢参りできるかしらん」
「それがまずの目標だね。最初の1カ月は慎重に慎重に、次の3カ月は恐る恐る、それを過ぎたら次の半年は少し大胆に、……そんな感じかな。1年はかかるよ」
「ゼッタイ、おなかいっぱい食べてはいけないと、先生に言われた」

部屋に戻った。

「少し外へ出てみようか? そしてそのまま帰ったら?」
「うん、そうしよう」

良子は部屋着の上に薄手のコートを被っただけで行こうとした。

「外は寒いよ。それじゃ風邪引くよ」

良子は袖なしのはんてんをコートの下に着た。それでも寒いと思ったが、短時間だからいいかと私は思った。

埠頭側に出たら案の定寒かった。記念写真を一枚撮って、すぐ引き返した。1階の売店で良子の飲物を買い、エレベーターで良子は上へ行き、私は地下の駐車場へ向かった。

※本記事は、2019年3月刊行の書籍『良子という女』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。