第3章 AI INFLUENCE

第6項 責任

1 鉄の時代の責任論

そろそろ本章のテーマとしてきた、“人工知能が個々の人間に及ぼす影響”に対する考察を締めくくりたいと思う。ここまでの要旨を整理すると、


・ 我々は人工知能の恩恵を受ける為に、自ら進んで自己を他者を「分子化」するようになった。


・ テクノロジーの観点の考察からは、迅速に正確な結果を得られる反面、その過程・道中はショートカットされ「他人事」になり、履歴は残るが記憶に乏しくなった。


・ 資本主義は過熱し、過剰な選択肢が溢れ返り、「検索が救済」となった。検索の行き着く先として、延いては「決定を委(ゆだ)ねる」ようになった。


最後に述べたいのは、我々の在り方の根本にある、“責任の在り方”が変わるという点についてだ。

あらゆる人間の行為を責任(但し、法的責任)の観点から考察する刑法学の考え方を起点に述べてみたい。

いわゆる近代(“鉄の時代”と言い換えても良い)に於いて責任論が語られるとき、そこには自我を持った個人の自由意思というものが前提とされた。絶対権力への隷属から解放された個人は、自由な意思を持ち、自らの意思で自らの行為を選択できる(それはその時代の先魁(さきがけ)にあっては本当に素晴らしい事だったに違いない)。

ある者の行為が、例えば刑罰法規に触れり、或いは民事的には他者に損害を生じさせたとき、その者を非難出来る(責任を負わせる)のは、その者が他の選択肢を選ぶことも出来たのに“敢えて”その行動を選択したからだ(故意責任)。その者が自らの意で罪を犯した以上は、自由の裏返しとして生じる責任として、その者は刑罰を受けなければならない(或いは損害を賠償する)のだと。

近代は市民に自由意思に基づいた活動(生活も商売も表現も)を許し、同時に責任の根拠にも自由意思がある(馬が猛って人を蹴り殺しても殺人罪には問われないのもそれ故だ)。

ところで、上記の考え方を責任論に於ける旧派と呼ぶとき、いわゆる“新派”と呼ばれる考え方がある。新派は、犯罪の遺伝や体質性(例えば凶悪犯罪者に特有の頭蓋骨の形状)を主たる根拠とし、そもそも人間には自由意思などないとされる。人々は自らの行動を自らの意思で選んでなどいない。環境に適した合理的な反応として行動は現れ、大概はそれらは問題のない振る舞いになっている。

ところが、統計的には、その人にあって自然な事が社会的には異常な行動として現れる個体も僅かながら存する。それはその人の生来的な部分に由来するものであり、その人の自発的な選択とは言えない。従って、その者には刑罰を与えるべきではなく、治療を施すべきなのだと。

要するに罪のないところに罰はなく、ただ、治療が必要となる、と新派は考える。

私が法律学を学んでいた頃は、新派と言っても未だ少数説に過ぎなかった。人工知能についての考察をしながら、新派の思想、発想を久しぶりに思い出した。今もなお少数説に留まるのだろうか。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。