一九七〇年 夏~秋

5 家出​

「中学校を出るまでの生活費と学費は、うちの家が払うたげるんじゃって。益江おばちゃんの給料だけでは無理じゃけんな」
シヨウニンが私の頭から離れません。

「えー、僕は大学へ行くつもりなんじゃけど」
「無理、無理、なんぼお金がかかると思うとるん」
「けど、ママはほうしいゆうとったし」
「ケンちゃん、あんまゴンタゆうたらあかんじょ」
「ほなって偉人になったらお金も……」
「ほんな夢みとうなことゆうとらんと、おばちゃんのためにも、手に職をつけて働かなあかんのとちゃうん」
「手にショク」

その意味が私には理解できませんでした。

「久子。何してるの」
そこへ万野芳典さんと民恵がやって来ました。

姉妹の間には明らかな容姿の差がありました。ピンク色のドレスを着た妹の民恵はまるで童話の絵本から抜け出してきた妖精のようでした。

「もうすぐ約束の時間だろう。早く出かけないと遅れるよ」

芳典さんは逸美叔母さんよりずっと年上ですが、映画俳優みたいな細面(ほそおもて)の男前で、ピンクのポロシャツと白いVネックのセーターを着て、折り目のきちんと付いたスラックスを穿いています。長い髪の毛を真ん中で割り、そこへ伊達眼鏡を引っかけたりと、都会的なセンスを誇示していました。

芳典さんが近くを通ると甘い香りがします。東京の大学を卒業していて、そのせいで言葉遣いも他の大人たちとは違うのでした。
「ケンちゃん、こんにちは。今日は誘ってあげられなくてごめんね。久子の御学友のお誕生会だから」
芳典さんは気の毒そうに言いました。

「なあパパ。ケンちゃんはうちのシヨウニンになるんじゃろ」
久子が真剣な顔で聞きました。

「そりゃまだわからないな。ずっと先の話だしさ。ねえケンちゃん」
私は何と答えたらいいのかわからず、愛想笑いを返しました。

「本人の希望も聞いてみないとね。旅館の仕事にも色々とあるしさ。フロントとかシェフとかメンテナンスとか」
耳に新しい横文字ばかりでしたが、そのどれもが『ショク』であり、かつ『シヨウニン』の一種であることはわかりました。

「タミちゃんは何になるん」
後ろで聞いていた民恵が、媚びた口調で芳典さんに聞きました。

「タミちゃんはパパのお宝だよ」
芳典さんが甘ったるい笑みを浮かべて言います。民恵は芳典さんの腰に抱きつきました。それを横目で見ていた久子が嫉妬を露わにします。どうやら芳典さんは久子より民恵の方が好きなようでした。いい気味だと私は思いました。

「じゃあ、ケンちゃんまたね」

三人が白けた空気を残して去っていきます。私は読書に戻る気になれず、湿気た畳の上で無駄な時間を過ごしていました。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『金の顔』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。