関東大震災の直後に起きた甘粕正彦憲兵大尉の犯行とされた、アナーキスト大杉栄の、拷問扼殺(やくさつ)事件の責任を一身に引受け、軍法会議でも弁明は一切せず、禁固十年の刑に処せられた元上司甘粕正彦憲兵大尉の実直な人柄が偲ばれた。

もっとも、あとで分かったことだが、それは表向きの刑で、実際には三年足らずで釈放されて満州へ渡り、天津(テンシン)に幽閉されていた清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を満州国の皇帝に据えるため秘かに連れ出すなど、関東軍の特務機関の幹部工作員として、満州国建国の裏舞台で活躍したということも耳にしていた。

それが弁明を一切せず、事件の責任を一身に引受けたことに対する、見返りといえば見返り、恩情といえば恩情であったことは想像に難くなかった。

が木坂は、その時はまだ一介の軍曹の身で、軍部内の奇々怪々な勢力図にも疎く、如何なる経緯でそうなったのか、その裏の事情までは分からなかった。

しかし今は、軍高官はいうにおよばず、政財界要人の愛妾(あいしょう)の所在まで知悉(ちしつ)している特高主任として、また人としても、分隊長にその二の舞をさせるわけにはいかなかった。

「いえ、それは詭弁(きべん)ではなく命令は命令、軍紀は軍紀というわけです。

しかし、これはあくまでわたしの憶測ですが、もし首謀者のお二人がここで大立ち回りを演じて墓穴を掘るようなことをなされば、今回のクーデターは間違いなく頓挫(とんざ)するでしょうから、荒木閣下としては、説得も思わしくなかったようですし、あるいは、今はそれも一つの解決方法と考えておられるのではないでしょうか。

また首謀者のお二人が、どうしても説得に応じないということであれば、たとえ検挙しても猛者(もさ)ぞろいの《桜会》の方々がお二人を見殺しにするとは思えませんし、かえって事態は緊迫し、何が起きるか分かりませんからね。

しかし、ここでお二人が墓穴を掘るようなことをなされば、むしろ、閣下の思うツボ。とまあ、そういう穿(うが)った筋書きもないとはいえないのではないでしょうか。

ですが、わたしでさえ読めるそれぐらいの筋書きは、当のお二人もお見通しでしょうから、事ここに至ったからには、それなりの覚悟はされているのではないかと思いますが」

と木坂は、

今はその二人のほかには客のいない《金龍亭》の見越しの松の枝越しに見える二階の大窓の、夜目にも鮮やかな朱塗りの腰掛縁の勾欄(こうらん)を見上げた。

といっても、いまその雨戸はびったりと閉め切られ、内の様子を窺い知ることはできなかったが。

「むん。軍人としては、ここは潔く腹を切るのが二人に残された唯一の道だろう……彼等の憂国の情は、私にも分からぬではないがな」

と、分隊長も同じように二階の大窓に目をやった。

がしかし、事態はその後も何ら進展しなかった。

ほぼ一時間おきに、谷口軍曹に二人の様子を探らせにいかせたが、すでに大概の事情を察して気が張りつめ顔も青ざめているという女将の口からは、芸子を相手に酒を飲んでいるという、同じ答えしか返ってこなかった。

そして日付も変わった。

「どうも腹を切る気はなさそうだなあ……」

と、分隊長は腕時計に目を落した。

木坂も黙って頷くしかなかった。

他方、荒木中将もいまだ首脳陣を集めて鳩首(きゅうしゅ)会談でもしているのか、いないのか。あるいは、やはり二人が腹を切るのを待っているのか、何の音沙汰もなかった。

今なお忘れがたい長い夜だった。我れ関せずといった青白い月が中天にあった。

が、やがてその月も《金龍亭》の屋根に懸かるほどに傾き、東の空がほのかに白みはじめたころになって、やっと憲兵隊司令部からの伝令がやってきた。

「橋本中佐殿と長少佐殿のお二人を、直ちに司令部に連行せよとの荒木閣下のご命令であります」

と、二人を連行するため憲兵隊の公用車で駆けつけた車輛班の伍長も、事の成り行きを案ずるように大窓を見上げ、内緒話でもするような小声でいった。

ついに時間切れとなり、荒木中将も腹を括ったのだろうが、それは検挙ではなく、連行せよという日常的な指示といってもいい、いかにも荒木らしいしたたかな命令で、いってみればゲタを預けられたようなものだった。

「その時は刀にかけても」といった冗談が冗談ではすまない事態になってきたが、命令は命令、軍紀は軍紀だった。

またその軍紀では、原則として将校の検挙や取調べには将校が当たるという規則になっていたが、分隊長殿にはとても歯が立つような相手ではなく、実直だけが取得の分隊長には、荒木中将の腹の内も充分理解していないのではないかと思えた。

それでも、分隊長もやはりそれなりに腹を括ったようだった。

一段と顔を強ばらせて二階の大窓を睨んでいた。

木坂も腹を括るしかなかった。                                

「では、まずはわたしが参上して司令部まで同道するよう丁重にお願いしてみましょう」

「いやいや、それでは軍紀に反することになるし、私も一緒に行こう」

と、やはり少佐殿は生真面目だった。

「いえ、逮捕とか検挙せよという命令ではありませんし、司令部まで同道していただくようお願いに行くだけですので、わたしが行っても軍紀に底触することはないでしょう。

分隊長殿は、もしわたしの身に万が一のことがあったら その時は致し方ありません。

みんなを率いて突入してください。

ですが、昨夜いいましたように、お二方も自身の名誉を汚すような大立ち回りをされるようなことはないと思います」

「それでは万が一の用心のためにも、三、四人連れて行ってはどうかね?

腹を切る気はまったくないようだし、何を考えてるか分からないからな」

「いえ、大勢で乗り込んでいったのでは穏やかではありませんし、お二方も、わたし一人を相手に大人気ない真似はなさらないでしょう」

と木坂は、命令が届いたことを知って集まった谷口軍曹らにも一瞥(いちべつ)を送り、《金龍亭》の門をくぐった。そして女将(おかみ)の案内で、橋本中佐と長少佐が陣取っている二階の奥座敷へ向かった。

当の二人も、この時あることをすでに覚悟していたようだった。

橋本中佐は、真偽のほどはともかく別室で寝ているとのことだったが、長少佐は二十畳を優にこえるかと思われるような広い座敷で、床の間を背に大胡坐(おおあぐら)をかき、美妓を左右にはべらせ、胸に金色の参謀飾緒を輝かせて傲然と構えていた。

と寝不足のためか、充血した両眼はドロンと陰険に据わっていた。

が、草臥れた背広姿で、しかもたった一人で現れた木坂を目にし、気勢をそがれた様子で、手にしていた盃も下に置き、探るような目つきでいった。

「何者だ、きみは?」

木坂はその正面一間ほどのところに正座し、静かにいった。

「東京憲兵隊特高主任の木坂圭介と申します。荒木閣下のご命令により、少佐殿と橋本中佐殿をお迎えにまいりました」

「特高……階級は?」

「陸軍曹長です」

途端に長少佐は肩を怒らせ、吐き捨てるようにいった。

「曹長? 曹長では話にならん。帰って司令官に直接ここへ来るように伝えろ!」

「少佐殿。僭越(せんえつ)ながら、あなたは参謀本部に勤務されていて軍隊の組織、命令系統はよくご存知のはずです。司令官が戦闘のたびに最前線へ出向いて陣頭指揮をとることがありますか。いま一度申しますが、わたしは荒木閣下の命令で参りました。つまり、それが閣下の最後通牒(つうちょう)でもあります」

「最後通牒?」

「そうです。はやい話、この場の決着はわたしら憲兵隊に任されたということです。

その意味するところはお分かりになると思いますが、事ここに至ったからには軍人は軍人らしく、潔く憲兵隊司令部までご同道ください……人は退(ひ)き際が肝心です」

この最後の一言は効いたようだった。

「そんなことはいわれるまでもない。おれは何も行かないといってるわけじゃない、ただ礼を尽くせといっているんだ、分からんのか!」

と、長少佐は吠えるようにいった。

「荒木閣下とは、どのようなお話があったのか存じませんが、閣下が自らここへ足を運ばれたことが、その礼に当たることだったのではないでしょうか。

しかし残念ながら、少佐殿はその機を逸いっせられたのです。今度は少佐殿が、それに応える番だと思いますが。閣下に再度足を運んでもらうわけにいきませんからね。

それに今ならまだ、事が露見したことはだれにも知られておりませんし、ここには我々私服の憲兵しか来ていませんので、世間に知られることなく穏便に事態を収拾することができます。忌憚(きたん)なくいわせていただきますが、荒木閣下も事あるごとに枕詞(まくらことば)のように口にされる言葉をかりていえば、今は『非常時』であり『常在戦場』が叫ばれている時です。

少佐殿が真に日本のため、東亜の恒久平和のためを思っておられるのであれば、今はご自分の信条や体面に拘っておられる時ではないと思います」

と木坂は、あくまで穏やかに応じた。

が、長少佐は鼻で嗤ったかと思うと、いきなり片膝を立て、傍らに置いてあった短刀を摑(つか)むと逆手(さかて)で抜き放ち、

「では、何がなんでも俺達を連行しようというのだな。いいだろう、できるものならやってみろ!」

と、目の前に並べてある膳を蹴り飛ばし、逆手に握った短刀を畳にズンと、まっすぐ突き立てた。

左右にはべって震えていた美妓は膝を崩し、声もなく後退(あとじさ)りした。

※本記事は、2019年4月刊行の書籍『泣いてチャップリン』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。