11月月30日(月)

水木しげる

空気が冷たくなった。いよいよ冬の到来である。

7時前に良子を訪ねた。

今夜から食事が出たと言う。といっても勿論流動食である。

「重湯」「いりこ味噌」「コンソメスープ」「オニオンスープ」とメニューにある。

「全部は食べられなかった」と良子は言った。
「絶対に無理せぬように。慎重に、慎重に」
「今日は不整脈が起こって先生に見てもらった。足から上の方までカテーテルを通した。何か対策を言ったけど、断った」と言った。

「不整脈は誰にでもあるよ。それは心配いらないと思うね」と私は言った。私自身、息が詰まるほど心臓が踊ることがある。

良子は色々と話した。あい子はふむふむと聞いている。私には言葉が分からない。

「何と言っているの?」
とあい子に説明を求めたが、応じてくれない。私はむくれた。

良子はクシャミをした。激しく顔を歪めた。傷が痛むらしい。まだまだそういう状態である。

「お母さんが大きな声を出せないのは分かるでしょう」
と、帰りの車中であい子は言った。

「お母さんは色々と話したいのだから、黙って聞いてあげるのがいいでしょう? 途中で遮るよりも」
「なぜ補聴器をつけて聞く努力をしないの?」

私の難聴は「音量」として聞こえないのではない。「音」は聞こえるのであるが、「言葉」として分からない。音がビリついて混濁するのである。特に小さく低い声がダメである。良子の言葉は分からないが、あい子の言葉は分かる。歌舞伎役者の言葉はよく分かる。

そういう状態であるから、補聴器で音量を増強することは、聴覚そのものを傷めてしまうような気がしてコワイのである。私はある日劇的に耳の通路障害がなくなることを期待している。あい子は優しい子であるが、こういうとき反論しても無駄であることはよく知っている。私は黙っていた。私は良子が何を話しているか、知りたかった。

水木しげるさんが亡くなった。

巨人であった、と思う。

12月1日(火)

片方しか選べない

午前中、私の選択が誤りだったのではないかとの思いに、苛まれた。「がん研」なら“癒着”に対してもっと万全だったのではないか。回避する手立てはなかったのか。

そもそも11月9日の退院予定が13日に延びたのも、イレウスの予兆であった。18日に再入院し、26日退院の予定が前日25日に苦しみが襲った。

18日からの1週間は何をしていたのか。「がん研」ならもっと手際が良かったのではないか。

良子に余分な苦痛を与えたと思い、私は苦しかった。

夜、良子を訪ねた。

「がん研 有明病院」であったなら、このように毎日来ることは無理であったろう。退院後の通院も負担になる。「みなと赤十字病院」は自宅から車で10分弱である。選択として十分な理由であった。

そして「がん研」ならイレウスが起こらなかったとどうして言えよう? いずれにせよ人は、「どちらかを選ばなければならない」。そして選ばなかった片方が今より良かったとは、検証しようがないのである。もう一つの人生はないのだ。

良子に笑顔があった。「お通じがあった」と言って親指を立てた。食べていないのだからウンコが親指ほどなのも当然と思った。

「良かったね」と私は言った。

食事は重湯、コンソメスープ、キャロットスープであった。半分以上残していた。

「ゆっくりいきましょうと先生は言っている」
「そうだ、ゆっくり行こう。持久戦や」

エレベーターまで良子は送ってきて、手を振った。

12月2日(水)

友と

今日は昼食を友と一緒にした。

直接血のつながりはないが(何代か前にはあったのだろうが)、60年を超す付き合いである。この歳になってもお互いを名前で呼ぶ。私のことを「よしちゃん」という。私は相手を「やすさん」と呼ぶ。名が安である。

やすさんは一昨年の8月に奥さんを亡くした。それ以前に長い看病期間があった。

「良子がこんなことになって、やすさんのことを度々思った。こんなことにならなければ分からなかった。自分が体験してみないと分からないね」

やすさんの奥さんは病気の問屋のような人だった。腸閉塞も何度も起こしていた。膠原病も持っており、冬期には指の感覚がなくなった。今日初めて知った病名であるが、真珠腫性中耳炎というのもやったそうである。

一度で取り切ることができず半年ほどおいて2回でやった。

「いくらのようなものがいっぱい出てきた」とやすさんは言った。

あまりの長湯を不審に思い、覗いてみると倒れていた。意識は戻らず、数カ月後に息を引き取った。二人に子供はなかった。

「先日食器戸棚を整理していたら、クスリ入れのような紙袋があった。ゴミ箱に捨てよう思うたら、何やら堅いものが入っている。開けてみると新札で50万円入っていた。はは、何を買うつもりやったんかなあ」

やすさんはおいしそうにビールを呑んだ。

「気力が出えへん」とやすさんは言った。

「ボクも、良子に死なれたらどうなるかと考えた。生きていくのがめんどくさくなるような気がする」

「今のワシが正にそれや。何してもおもろない。呑みに行っても、家で貞子が待っとるから楽しいんや。家に誰もおらなんだら、呑みに行く気にもならん。仏壇の前で独り言いいながらチビリチビリやっとんねん。ほんま、詰まらんよ。お母ちゃん、早う迎えに来てくれ、そう言うとるんや。兄貴は嫂さんの七回忌を終えたらコロッと逝った。ワシもそんな気がするなあ。貞子の七回忌はオリンピックの年や。オリンピックをちょっと見て、コロッといきたいな」

夜、コオが来て、一緒に良子を見舞った。

「大変だったね」とコオは言った。
「でも、元気そうじゃん」

「あんたの方が心配や」と良子は言った。
「俺は大丈夫だよ」

「まだまだ時間はかかるの?」
とコオは訊ねた。

「分からない」
と良子は言った。

「来週中には帰れると思うけどね」
と私は言った。食事の三分粥が、半分も食べられていない。来週いっぱいは必要と私は思った。

40分ほどいて、私たちは帰った。

12月3日(木)

停滞

2日ほど前から笑顔が見えるようにはなっているが、もう一つ、すかっとした感じが出ない。回復感というものは最初の手術のあとがもっともっと顕著であった。私がそうなのだから本人は私の何倍もビクついているのかもしれない。気持ちの要素も大きいと思う。

元気がなかった。五分粥になったそうであるが、ほとんど食べていない。全部食べてしまったら大丈夫かなと心配するのであろうが、食べ残しはやはり不安である。栄養の点滴が続いているので、空腹感が出ないのかもしれない。

「今日は5回もお通じがあった」と言った。食べていないのに5回も行くとは、下痢に近いではないかと思ったが、下痢の感じではないらしい。

「ちゃんと先生に伝えるんだよ」と言った。出ないよりは良いだろうと私は思った。

※本記事は、2019年3月刊行の書籍『良子という女』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。