11月29日(日)

トスカ

今日はあい子と一緒に新国立劇場オペラパレスで『トスカ』を観劇の予定であった。

チケットは1年以上前に入手しており、良子の罹病は考えてもいなかった。良子の状態に異変があれば勿論オペラどころではなかったが、昨夜の状態を見て安心していた。

私の勘違いで13時開演と思い込んでいた。

拙宅から首都高速経由、1時間弱で劇場に着く。途中の異変も考慮して2時間前に首都高速へ乗るのを常にしていた。実際には14時開演であったので12時でよかったのであるが、それを11時と思い込んでいた。あい子もおかしいなと思いつつ私に注意しなかった。

10時半に良子の病室に入った。今朝はちょっと顔を見て、すぐ出かける、オペラの帰りにゆっくり来ると、昨夜良子には伝えていた。

良子の顔色が少し青かった。
「元気ないなあ。調子悪いの?」

良子は、痛み止めを強いのに替えたと言った。そのせいだろうと言った。
「ということは、痛いの?」
良子はうなずいた。

あい子が指示されたものを1階の売店へ買いに行った。私は持ってきた爪切りで良子の爪を整理した。深爪をいやがった。老眼鏡をまだ使っていないが老眼に違いない私は、爪先が見えにくかった。「危ないねえ」と良子は何度か手を引いた。

11時に部屋を出た。首都高速入り口まで5分であった。12時に新国立劇場横に着いてしまった。新宿中央公園で時間をつぶした。良子の冴えない表情が、私の心を重くしていた。今回私の悪い予感はすべて当たった。

それを考えるとぞっとした。

『トスカ』は素晴らしかった。

6時に再び良子を訪ねた。

ところが良子は、朝と見違えて元気であった。私はほっとした。

痛み止めを、飲み薬でなく点滴にしてもらったら随分楽になって、オナラが3度出た、と言った。

「出たか!」
「出た」
私は両手を上げた。

『トスカ』には思い出がある。最初に知ったのは、「星も光りぬ」であった。

ジュゼッペ・ディ・ステファーノが歌ったシングル盤(EP盤とも言った。基本的に片面1曲。星も光りぬの裏面に何が入っていたか、記憶にない)で、見事にきれいなテナーであった。マリア・カラスの最後の恋人と言われている。

2012年の4月末から5月にかけて、私たち夫婦はミラノを拠点にイタリアを旅した。

あい子を介添役にした。あい子はドイツで3年ほど働いた経験があり、英語とドイツ語はそれなりに話せるので便利である。ホテルはミラノに固定し、湖水地方とか、パルマ、ヴェルディの古里等を訪ねた。その間にスカラ座では『トスカ』をやっていた。是非観たいと思った。

出発前に公式価格の3倍条件(インターネット・ダフ屋か)で頼んでおいたのであるが、出発直前に、取得不能のメールがきた。当日券で天井桟敷でも手に入れば、と思いながら出発した。

4月29日、ホテルのコンシェルジュに再確認したが、チケットは完売とのことであった。肩をすぼめ両手を広げて、どうにもならんという顔をした。

スカラ座の当日券売り場に並ぶつもりで、その前にチケットセンターへ寄った。Duomo駅地下街にスカラ座のチケットセンターはある。

当日券の申込場所はスカラ座そのものの左側にある。チケットセンターは意外に閑散としていた。私もいわばチケット完売を最終確認のため、未練でそこに寄ったのある。

一人だけ先客がいて、私からすれば随分長話をしていた。若干イライラした。

その男が去って、あい子が進み、当日券はあるかと訊ねた。

「これがそれだ」と、窓口のオジサンは、今去った男のキャンセルチケットを示した。体で感情を示すことのないあい子が、ワオと声を上げた。

私たちがその男より5分先に行っていれば、私は当日の天井席取得に並んだであろう。それも取れたかどうか分からない。5分遅くても、同じ目的の誰かが私の先に間に入ったであろう。インターネットの時代、キャンセル待ちはいっぱいいたはずである。間に誰もいない、隙間のない接続が私たちを、スカラ座の「トスカ」に導いた。

未練でも、求めれば、何かが起こる、そう思った。

今日の新国立劇場オペラパレス、『トスカ』も素晴らしかった。

トスカ、カヴァラドッシ、スカルピアの三人の歌手が第1級であった。

第1幕でトスカのマリア・ホセ・シーリさんが二人の男性に比べて弱いかなと思ったが、結果を見れば一幕では彼女は抑えていたのであって、2幕、そして終幕で爆発した。

ホルヘ・デ・レオンの「星も光りぬ」も切実だった。ただ歌い終えて直ちにブラボーが来たので、これはほんの少し、間をおいた方が良かった。歌手はまだ息を詰めているのである。息を詰めている間も「歌」である。

以上を書き終えて新国立・オペラパレスのサイトを覗いてみると、次の報告が出ている。

* オペラ「トスカ」平成27年11月23日(月・祝)公演におきまして、トスカ役のマリア・ホセ・シーリは体調不良により第1幕までで降板し、代わって第2幕よりカヴァーの横山恵子が代役を務めました。

ということは今日も、第1幕では体調を確認していたのかもしれない。2幕で確信を持ち、3幕でここぞとばかり爆発したと思う。

良子を心配して車をとばして帰った。

元気な顔を見て、夜ワインをあけ、ゆっくり『トスカ』を反芻した。

※本記事は、2019年3月刊行の書籍『良子という女』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。