第2章 山心の萌芽期

【東鎌尾根】 チーズもらって飴玉返す ~1973年7月(36歳)~

行くか戻るか​

午前4時半に目が覚めた。昨日からの引き返し台風は、少しも衰えていないらしい。ラジオを聞きながら、もう少し様子を見ようと思った。

午前6時を過ぎると風が止み、雨も小降りになってきた。窓の外では、小屋の人が暴風で落ちた木の葉を掃いている。私はその人に様子を聞いてみた。

「西岳小屋までかなり危険なところがありますか?」

掃除の人は箒の手を休めて、「大したことありませんよ」と言ってくれた。しかし、山に住んでいる人には大したことがなくとも、初心者の私には難しいかもしれない。台風が通り過ぎるまでこの小屋に泊まり続けようか? 

でも、東鎌尾根を行く人が全員落ちているわけではない。地図には西岳小屋まで2時間とあるが、3時間かけるつもりで進んでみようか。

ともかく、このままずっとここにいては時間がもったいない。西岳小屋の途中まで行ってその先が難しかったら、またこの小屋まで引き返してきたって昼までには戻れるだろう。

迷いが出発を遅らせ、結局午前7時半になってしまった。切れ落ちているヤセ尾根で足がすくんだり、四つん這いになったまま滑り落ちそうで動けなくなってしまったところを慎重に通過しながら、やっと西岳小屋に到着した。大天井ヒュッテからとりあえず西岳小屋までと思ってきたが、ともかくほっとした。

天気は良くないが、明日はもっと悪くなるかもしれない。行けるところまで行って、その先が無理だと思ったら、また西岳小屋に引き返せばいいのだ。さっきの考えで進んでみよう。

地図にヒュッテ大槍まで3時間とある。槍ヶ岳まで行けば、後は5年前に少佐ことM先生と歩いた槍沢雪渓の道だ。不安な道の終点を槍とすれば、このコースも8割まで来たことになる。

だがガイドブックには、これからが東鎌尾根という最大の難所とある。8割まで来た道を引き返すか、転落死亡や全身打撲があったという残り2割の東鎌尾根を進むか。人生には向かって行かなければならないこともあるし、無理しなくて良かったということもある。

※本記事は、2019年9月刊行の書籍『山心は紳士靴から始まった』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。