Ⅰ『魏志倭人伝』を歩く

── 帯方郡から女王国へ、魏使の足跡を辿って

一 松本清張『陸行水行』が陥ったジレンマ

古田史学の登場によって、「邪馬台国論争」は二〇世紀の遺物と化したと思っていたが、テレビ番組や雑誌の特集記事など、ひそかな古代史(邪馬台国)ブームが訪れているようだ。またぞろ旧態依然の邪馬台国論争が繰り返されるのであろうか。

『魏志倭人伝』は三世紀日本の貴重な記録として、さまざまな解読が試みられてきたが、何世紀もの間なかなか正解に辿り着けない状況が続いて、ついには「春秋の筆法」なるものが持ち出され、また「謎解き」の好古の対象として、名刑事や名探偵までが登場して各自各論が展開されている。そんなことを感じながら、四〇年ぶりに松本清張『陸行水行』(『別冊黒い画集②』文春文庫)を読み返してみた。

総里程万二千余里、帯方郡を出発して狗邪韓国まで七千里、そこから海を渡って対海国(対馬)へ千里、また一大国(壱岐)へ千里、末盧国へ千里。ここまでが従来の解釈によると一万里。

陸路に移って五百里で伊都国、さらに東に百里行くと不弥国に到達する。女王国はもう目の前だ。刑事がその意地と執念で、犯人(目的地)をアジトの手前まで追いつめていながら、いざ踏み込もうとしてドアに手をかけた瞬間、さあお逃げなさいと言わんばかりに解き放ってしまう。従前の読解法に従うと、そこから「水行十日、陸行一月」の先に、やっと「邪馬台国」に辿り着くという。

今回、推理小説の名手をして迷路に陥らしめた「水行十日、陸行一月」。その推理過程に清張の悪戦苦闘ぶりが窺えるが、結局試行錯誤の上、登場人物の浜中浩三と同行の支援者を探索途中の事故死にしたのは、邪馬台国の所在を永遠の謎とする暗喩ではないかと思った。

ただ、当時の歴史学会、とりわけ日本古代史の分野においては、従来からの直線式読法か、伊都国以降の放射線型読法(榎一雄説)が一般的で、その殻を破る術がまだ登場していなかったためであろう。「水行十日陸行一月」に関しては、倭人伝二〇〇〇字にとらわれず、『魏志』の東夷伝全体の構成、とりわけ『倭人伝』直前の『韓伝』に謎を解く鍵が隠されているようだ。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『神話の原風景』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。