第2章 山心の萌芽期

【槍ヶ岳】少佐に誘われて ~1968年8月(31歳)~

ただ無心に登るのみ

昨日までは旅行者のような服装をしていた私が、リュックから山登りの服装を出して着替え始めたら、「お! 今日は燃えてるね」と少佐はしり込みばかりしていた私のやる気ある姿を見て、嬉しそうだった。槍沢ロッジを午前6時に出発。しばらくは昨日と同じ道を登った。

雪渓を歩く人のなかに、物干し竿のような棒を背負い、案山子のような恰好をして登る人を見た。間違ってクレバスに落ちたとき、自分の体を守るためらしい。さすが北アルプスともなると用心深い人がいることに私は驚いた。

大曲を過ぎて間もなく、先を行く足の強い少佐が「見えたよ~、槍だ~」と声を出したので私は少佐のところまで急いだ。そこで見た槍ヶ岳の絶景に息を呑んだ。

「あれですか……凄いですね……」

私たちは二人並んで雪のなかに突っ立ったまま、大三角形を前にして、しばらく動けなかった。蓼科の林間学校で遠くから見た鉛筆の先のように見えた山とは、まったく別物だった。

しかし、ここからがきつかった。登れど登れど、槍ヶ岳は近づいてこない。息遣いが荒くなり、休む回数ばかりが増えてきた。

右にも左にも壁のような山が続いている。後ろを振り向いても高い山がある。名前は一切知らない。知ろうとも思わない。ただがむしゃらに槍ヶ岳を目指して登った。

やっと槍ヶ岳山荘に着いた。午前11時だった。昨日6時間、今日5時間。やっとここまで来た。少佐はまだやる気だ。

「あのてっぺんに行こうよ!」

私はびくびくした。

「え! 怖そうですね……」

昨日から弱気の私に、「大丈夫だろう。みんな登っているんだから……」

「……(怖そうだけど、登ってみようかな?)」

二人で出発。危ないところには鎖や梯子があったので、登ってみると下から見るほど怖くなかった。ただ、頂上に着く一歩手前のところで一瞬足がすくんだところがあった。落ちたら絶対に死ぬという恐怖に襲われたのである。

ようやく頂上に着いた。頂上は意外と広かった。周りを見渡せば四方八方が山だらけだった。

山の名前を教えてくれる円盤があった。隣に小さな祠があり、隣に赤くさびた太い鉄の槍が石ころだらけの頂上に突き刺してあった。心配していた台風は、どこかに行ってしまったようだ。

「バンザーイ! バンザーイ!」

少佐は方向指示版の上に立って、大きな声で両手のこぶしを天に突き上げた。

「もういつ死んでもいいよ!」と心から喜んでいた。同行の彼の目を見て、私まで嬉しくなった。「来て良かったですね」と私は言った。

彼は黙って何度も頷いていた。少佐は達成感に酔っていた。この日このときの登頂が、それからの私が北アルプスにのめり込むきっかけになろうとは、このときは知る由もなかった。

※本記事は、2019年9月刊行の書籍『山心は紳士靴から始まった』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。