第1章 山本(やまもと)果音(かのん)

一.春とともに現れた少女

カタカタカタ……。生徒がいない保健室に、キーボードを叩く音だけが響く。教室にいる時の果音の表情は、保健室で見せる表情とは違って暗い。果音は横目で「あの子」を見ながら思う。

(なんでクラスを仕切っているの? あ~嫌だ。ここに居たくない)

バーバラのいる保健室には、正直行きたくなかったが、ベッドで休もうと考えた果音は保健室へ向かった。

(誰にも見えないように、カーテンを閉めたら大丈夫)

保健室にやってきた果音は、わざとヨロヨロしながらバーバラに近寄った。まだ何も言ってないのに、バーバラは非接触型の体温計をピストルのように持って構えている。

(どこから出した?)

果音は一瞬、自分の目を疑った。ピーッ

「三六・二! 非常によろしい!」

「え? 何? 熱がないからだめ? 生徒がベッドで休みたくてもだめですか」

「うん。じゃあ、お話ししましょう」

果音は今日こそバーバラを自分のペースに巻き込みたい一心であった。こうなれば奥の手を使って同情を買うしかないと思った果音は、わざと小さな声で語りかけた。

「先生」

「なあに?」

と、バーバラは能天気に答える。

「うち、母子家庭でお父さんは私が小さい頃、癌で亡くなりました」

(ほ~ら、さすがのババアも顔色が変わって……? ない!)

「それは大変だったね。で、お父さんは何癌だったの? 先生の父親はすい臓癌で亡くなったのよ。二人に一人は癌にかかる時代と言われているよね。癌との闘い、病原菌やウィルスとの闘い……。人間はさぁ……」

(マズイ!)

またもや「人体の不思議」を語り始めたバーバラを見ながら、果音は思った。

(やめて! ババアの目が、遠くを見ているよ。また、まけた?)

果音のリベンジは今日も失敗に終わったのだった。

「フー」

バーバラがため息をつく。今日は果音を含め、既に十五人は来室している。月曜日の午前中は特に、不調を訴えて来室する生徒が多い。バーバラは保健室の役割が変わってきたことを痛感していた。

今の時代根性論だけではやっていけない。以前は、これさえ頑張れば、これさえ乗り越えれば、その向こうにはきっと素晴らしい感動が待っていると、信じて生きてこられた。何事にも屈しない強靭な心が、何より大切だとされてきた。でも、それによる弊害は、誰も教えてくれなかった。

「死ぬ気で頑張れ!」

を通り越し、

「死んでも頑張れ!」

と、急き立てられた。その結果、無理し過ぎ、頑張り過ぎて、ボロボロになるのである。

今は違う。心は折れて当然、折れても許されるのだ。

「無理をしてはいけない」「自分を大切に」こんな言葉をよく聞く。バーバラ自身も「頑張れ」の代わりに、「大丈夫」をたくさん使っている。今は強靭な心を持つことより、心の回復力が大切な時代。こうして世の中は心を回復させる術を模索するようになった。

いつしか保健室も「カウンセリングルーム」となり、心が折れた生徒で溢れ出した。バーバラは時に、昭和の頃の学校が恋しくなることがある。飽きることなくよく遊び、笑った子ども時代。怪我もしょっちゅうした。保健室に行くと赤チンを塗ってくれ、

「また遊んでおいで」

と送り出してくれた先生がいた。

(よく赤チン塗ってもらったな。フフッ)

時代とともに保健室での処置や対応は変化するが、「これだ!」と言える正解はない。ただ、どの時代でも外してはならないものはある。それは生徒としっかり向き合うことだ。誰しも嫌われたくはないが、本気で向き合って嫌われることもある。嫌われてもいい。いや、むしろ教師は嫌われてなんぼだ。時間がかかっても、その本気が伝われば本望だとバーバラは思っているのだ。

「果音ちゃんはきっと、私のこと嫌いだろうな。フフッ」