第3章 AI INFLUENCE

第3項 過程

2 思えば遠く来たもんだ(中原中也「頑是(がんぜ)ない歌」より)

我々は過程をショートカットしながら、合理的・一般的・客観的に正統性を得た解とその解のもたらす利益を享受し、先へ先へと進む。

複雑な現代社会を生き抜く我々には、やることは、やらなくてはならないことは、日々、雪崩の様に押し寄せてくるし、その雪崩の様な諸事を万事つつがなく処理しながらも同時に、日々、我々は成長し続けなければならない(らしい)。

乗り換え案内のアプリを使い、それに従い交通機関を乗り継ぎ、目的地を目指せば最速・最短でその場所に着くことが出来る。歩いて行けない場所に行けるというのは、反面、結果的に訳の分からない場所にいるという事でもある。

地名以外に、そこが何処だか分からなくなってしまっても問題はない。GPS検索をすれば、私が何処にいるかは直ちに位置情報として示される。

ただ、その正しい位置の記載は私自身にとって、如い何か なる意味を持つのだろう。次の場所に行ける、という以外に何の役に立つだろう。

“思えば遠く来たもんだ”

歳月という永い旅路を経て主人公は、ふと足を停め、振り返る。振り返った彼の視界には、長い長い道のりがたくさんの記憶と伴ともに懐かしく、これから生きていくのが不安になる程にいと恋しく、ありありと浮かんでいる。

記憶喪失の映画が一頃流行った。優れた物語は、その時々にあって我々が共有している克服しなければならないテーマを投げ掛ける。

とすればどうやら我々は、名前だけでなく記憶も取り戻さなければならないようだ。我々の記憶は何処にいってしまったのだろうか。

旧く刑法に曰く、「行為は主観と客観の統合体」とされる。人間が、動物でありながら理性を持ち、自我を持ちながらも集団的生活を営む生物である事から、謂わば複合的に、行為は主観と客観の二面により構成される。

自らを分子化することによって得た解に沿った行為というのは、極めて客観性に担保された行為であり、同時に主観性に乏しい。

ある行為を記憶として想起する手掛かりは、行為に込めた主観、言い換えれば、あなたがその行為に込めた“想い”(「えいやっ!」と指す一手)だ。行為の主観性が薄まるにつれ、日々の行為は記録(履歴)としては残るが、記憶には残りづらくなる。

記憶の喪失には過程の省略も一役買っている。主観の薄まりと過程の省略はリンクしている。過程を省略するというのは、畢竟(ひっきょう)、その道中は他人事になるという事だから。

考えてみると、それはお金を使うのと似ている。お金とは、取りも直さず、他人に自分の換わりに何かをさせる力だ。

キノコを山へ行って摘む換わりにスーパー・マーケットでキノコは買えるし、キノコを調理する換わりにレストランでキノコ料理を手間なく美味しく後片付けする必要もなく食べることが出来る。

過程を他人の労力(或いは他人所有のテクノロジー)で解決してもらうのがお金の力だ。

一方で、お金を愛する事は出来ないのと同じくらいの確かさで、例えば将棋に於いては、どれ程の大金を積んだとしても一定レベル以上の、謂わば本当に良い将棋を指せるようになることは叶わない。自分事だからだ。

我々は、貨幣経済社会に生きる以上、平日は人から他人事を引き受けお金をもらい、休日はお金を使って自分事を他人に任せている。貨幣経済は洗練化され、システムは隅隅まで張り巡らされていく(もちろん、この両者はとても相性が良い)。

結果(果実=ベネフィット)だけを得るなら、人に出来ることはお金を払って換わりにやらせ、人によってバラツキの出る難解な判断は人工知能に委ねることで、おおよその事柄は解決される。

最速陸上交通機関の新幹線は車窓から風景を喪わせた。かつて汽車の車窓から見えた風景とは、もどかしい過程の副産物であり、眺めれば、移動の記憶を伴うものだった。

我々は、貨幣とテクノロジーの多大なる恩恵を受けながら、降りられぬ程の高さの梯子(はしご)をあくせくと上り、自分事を失い、それでも生きているがゆえに、記憶を伴わない移動は続く。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。