一九七〇年 夏~秋

4 マユミの嘘泣き

洋一が母をチラチラと見ています。が、決して私を見ようとはしません。私は洋一に対して、圧倒的な優越感を感じていました。

私が依然として手中に収めている唯一無二の存在を、洋一は永遠に失ったばかりでした。彼の心を占める羨望の念が痛いほど伝わってきて、もうそれだけで有頂天になってしまいました。

私はさも楽しげに立ち漕ぎをしました。母がこちらを見ています。それだけで幸せ一杯でした。母は私のすべてだったのです。

学校へ授業参観に来たときも、他のどの母親より際立って綺麗でした。それが自慢で、何度も後ろを振り返って見たものです。輝きに満ちた世界が、何の疑いもなく母の背後に広がっていました。

その美しさは私の目に焼きつき、その後の女性関係に大きな影響を及ぼすことになります。つまり、その後に出会うどんな相手も母を超えることはできなかったのです。ある種の呪縛に雁字搦(がんじがら)めにされて、この五十年を母と共に生きてきました。それが良かったかどうか、今となっては後悔する気にもならない必然だったと思っています。

風のそよぎに白いたなびきが混じりました。母が煙草を吸っているのでした。父の『しんせい』をくすねてきたようです。

丸くした口からドーナツ状の煙を、一つ二つと吐き出しました。それは洋一の鼻先で壊れて消えました。

母は三つ四つと輪っかを作ります。一本吸い終わると、すぐに次を咥(くわ)えて火をつけます。そしてまたいくつもの煙の輪っかを作り続けます。

煙は大きくなって千切れ、大気に溶けて霧散してしまいました。洋一はそれをじっと見つめています。

次第に空が明るくなってきました。山の頂は薄紫に染まり、周囲が鮮やかな色彩を纏(まと)いはじめます。煌煌(こうこう)とした太陽の光は、樹々の緑をくっきりと浮き立たせました。

急に蝉の声が湧き起こり、去りゆく夏の黎明(れいめい)を鳴き尽くそうとします。神社の軒先に大きな円網(えんもう)が架かっていました。

その中心で掌(てのひら)ほどもある女郎蜘蛛(じょろうぐも)が、罠にかかった蝉を餌食にしています。蝉はまだ生きており、救いを求めて鳴きました。

洋一が棒きれで黄色い斑点のある蜘蛛の背中をつつきました。運良く蝉は蜘蛛から逃れましたが、高く飛ぶ力は残っておらず、地面に落ちて独楽(こま)のように回りました。やがて鳴き声が途絶え、羽ばたきも止(や)んでしまいます。

洋一は蜘蛛を叩き落とそうとしました。蜘蛛の糸に付いた水滴が、小さな宝石のように輝いています。

昨日の雨が嘘のように空は澄み渡り、眩(まぶ)しい陽光が田んぼの稲穂を温めていました。その上に光の靄(もや)に似た流れが生じています。蜘蛛は半分破れた巣から動こうとしません。

現実が静かに、そして確実に駆動していました。洋一は棒を投げ捨てます。

「夜が明けたなあ」

母が揉み消した煙草を懐に入れました。

「オバちゃんやはそろそろ行かんならんのんよ。ヨウちゃんも家い帰り。いけるじゃろ」

尻を払って立ち上がります。素直に頷(うなず)く洋一の眼には、いつしか涙が一杯になっていました。彼は自分の家へ歩きだします。それに驚いた電線の雀(すずめ)が、青さを増した空へ向かって飛び立ちました。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『金の顔』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。